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春日通り 本郷消防署前交差点で右折、消防署前通りへ |
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消防署前通りを南下 消防署前通り交差点 |
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消防署前通りを南下 御鳳輦 |
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消防署前通りを南下 本社神輿 |
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消防署前通りを南下 宮司騎馬 |
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消防署前通りを南下 旧町名案内 旧春木町
もと、本郷村の内であった。
元和2年(1616)、徳川家康の死去により駿府から引上げた御中間・御駕籠方が大縄拝領(広い土地を一括してもらう)、その後元禄9年(1696)町家を開いた。
町名は、霊験が評判の伊勢神宮の御師春木太夫が、ここに住んでいた跡なので、その名をとり本郷春木町とした。御師は祈とうをつかさどる神職である。
明治44年、本郷をとり春木町とした。
明治6年本郷の地主奥田氏が奥田座を開いた。同9年に町名をとり春木座と改めた。九代目団十郎と五代目菊五郎とが出演して活況。同35年に本郷座と改めた。新派の川上音二郎一派が出演し、新派の全盛期を迎えた。 |
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消防署前通り 本郷二丁目交差点で右折、本郷通りへ |
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消防署前通り 本郷二丁目交差点で右折、本郷通りへ |
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本郷通り 壱岐坂上交差点で左折、壱岐坂通りへ |
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本郷通り 壱岐坂上交差点で左折、壱岐坂通りへ |
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壱岐坂通り 壱岐坂上交差点 界隈案内図 |
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壱岐坂通り 三河稲荷神社 御神酒所
巡行経路図では三河稲荷神社御神酒所の位置であるが、次の元町会の法被を着た人が集まり、特になんのイベントも行われなかった。元町会の氏子たちは巡行を見送った後、本来の元町会の御神酒所に向った。 |
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壱岐坂通り 壱岐坂通り交差点 |
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壱岐坂通り 壱岐坂通り交差点 太神楽 |
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壱岐坂通り 壱岐坂通り交差点で左折 |
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区立本郷給水所公苑 元町会 御神酒所 大榊、獅子頭山車
右には区立本郷給水所公苑がある。 |
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区立本郷給水所公苑 元町会 御神酒所 御鳳輦 |
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区立本郷給水所公苑 南西角で右折、順天堂医大キャンパス沿いに東進 |
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区立本郷給水所公苑 南西角 済生学舎 発祥の地
明治9年(1876)4月9日、この地に医学者・長谷川泰(1842〜1912)によって、「済生学舎」が開校した。済生=”広く民衆の病苦を済う”。この願いを込めて、医術開業試験(当時)の予備教育を目ざして創立された学舎に、西洋医学を志す優れた学徒が多数集まった。明治12年冬、火災により校舎を失い、学舎長の自宅(現本郷2−7−8)とその隣地に移転、明治15年、現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地)に、本格的校舎を建設し、付属蘚門病院及び薬学部を付設して、「東京医学専門学校済生学舎」と称した。
かくして、学舎は隆盛の一途をたどったが、事情あって、明治36年(1903)8月31日、創設者長谷川泰みずから廃校を布告して、28年間の歴史を閉じた。その間、2万1千余の男女学生が学び9千6百余の医師を輩出し、わが国黎明期の医学振興、地域医療に果たした役割は極めて大きい。
「済生学舎」の廃校直後から、これを惜しむ教師・学生達によって、いくつかの医学講習会が設けられたが、その一つを母体にして明治37年4月、「私立日本医学校」が設立され、現在の「日本医科大学」(千駄木1丁目)へと発展し、済生学舎教育の精神は受け継がれていった。また、学舎ゆかりの「東京女子医科大学」、「東京医科大学」も、それぞれの道を歩み発展していった。 |
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区立本郷給水所公苑 南西角 済生学舎 発祥の地 |
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区立本郷給水所公苑 南西角で右折、順天堂医大キャンパス沿いに東進 |
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順天堂医大キャンパス沿いに東進 順天堂八号館 |
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順天堂横交差点 消防署前通りを渡り、斜め左に進む |
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突き当りで左折、本郷通りへ |
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突き当りで左折、本郷通りへ
右奥に蔵前橋通りの起点でもある本郷通りのサッカーミュージアム交差点が見える。 |
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本郷通り 本三南部会 御神酒所 |
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本郷通り 本三南部会 御神酒所 御鳳輦
ここでも神職による祝詞奏上とお祓いが行われる。 |