|
六本木ヒルズ テレビ朝日 毛利庭園側入口からの風景 |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園入口のモニュメント |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園
もみじなどの紅葉が美しい。 |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園 |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園 シャンデリアオブジェ
毛利庭園内の池に設けられたオブジェである。 |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園から見たヒルサイド |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園 シャンデリアオブジェ |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園
六本木ヒルズの緑のシンボルとして、「空」と「緑」を感じられる日本庭園を作庭いたしました。
この庭園では、古くからの地形を活かして池や流れを造るほか、クスノキ・サクラなど9本の既存樹木を残して、春はサクラ、秋はモミジと季節の変化を楽しめる回遊式の庭園としました。
この庭園が、これからも開かれた庭園として、多くのみなさまに親しまれ愛されることを願っています。 |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園 |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園 |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園 |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園 毛利甲斐守邸跡
この地は、吉良邸討入りに加わった元赤穂藩士四十七人のうちの十人が預けられた長門長府藩毛利家麻布日ケ窪上屋敷の一部である。中国地方の戦国大名毛利元就の孫に当たる秀元を初代とする毛利家は、現在の山口県下関市に藩庁を置いた外様大名(三万六千二百石)である。赤穂事件当時の三代藩主毛利綱元(一六五〇〜一七〇九)は、五十六年間の在任中に家臣団の整備や財政の建て直しを図り、藩政を確立させるとともに、歌集『七石集』を著すなど、和漢の学に長じた名君として知られている。
元禄十五年(一七〇二)十二月十五日、藩主毛利綱元は、家老田代要人を請取人として江戸詰藩士三百余人を大目付仙石伯耆守邸(現在の港区虎ノ門二丁目八)に遣わした。岡島八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林唯七隆重、倉橋伝助武幸、間新六光風、村松喜兵衛秀直、杉野十平次次房、勝田新左衛門武尭、前原伊助宗房、小野寺幸右衛門秀富の十人の日ケ窪の江戸屋敷に収容された。
元禄十六年(一七〇三)二月四日、幕府の裁きにより十人は、使番斉藤次左衛門利常(千七百石)、目付鈴木次郎左衛門福一(五百石)の立会いのもとに、この屋敷で武士の本懐を遂げた。この時、本藩である長州(萩)藩からも藩士が派遣されており、長府毛利家は、本来の保護を受ける立場であり、義士預りに慎重を期したことが伺える。 |
|
六本木ヒルズ 毛利庭園
環状3号線側出口から毛利庭園を出る。 |