|
六郷の渡し跡
六郷橋上流の土手下にある。 |
|
六郷の渡し跡
石碑は「止め天神」だが、鳥居の額は「北野天神」である。土手の下の村の天神様、と言う趣である。 |
|
六郷の渡し跡
墨がかすれて読みにくいが、「六郷の渡し」と「日本橋へ四里半」と書いてある。 |
|
六郷橋 |
|
六郷橋
河川敷のゴルフ打ちっ放し場で、最長200ヤードはある。 |
|
旧東海道 川崎宿
六郷橋を渡ってすぐのところにあり、後で分かったことであるが、この道が旧東海道であった。 |
|
旧東海道 川崎宿 案内図
赤丸が現在地で、中央下が京急川崎駅、そのやや右で青線の旧東海道が右上がりになりかかっている所がJR川崎駅である。右の頂点が小土呂である。 |
|
旧東海道 川崎宿
大師道との交差点(本町交差点)にあり、「新宿という町」と書いてある。川崎宿が他の宿より後で作られたので「新宿」とも、宿を設けるときに新たにできた町並みともいう。 |
|
旧東海道 川崎宿 |
|
旧東海道 川崎宿 |
|
旧東海道 川崎宿 田中本陣跡
ここにあった、と言うだけで遺構は何もなく、歯科医院があるだけである。 |
|
旧東海道 川崎宿 田中本陣と休愚
田中本陣は、寛永5年(1628年)に設けられた宿内最古の本陣である。ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した。 |
|
川崎 旧東海道の碑
川崎駅前の市役所通りの砂子交差点と、府中街道の本町交差点を結ぶ片側1車線の道路は旧東海道で、このような碑が到る所にある。砂子交差点から西は繁華街で、旧東海道をもっと売り物にしている。 |
|
川崎 旧東海道 問屋場跡
伝馬人足、飛脚、本陣の休息などの宿場業務を監督した。 |
|
川崎 旧東海道 助郷会所跡
宿場に常備する伝馬人足の不足を補う助郷制によって近在農村より徴用された人馬は、助郷会所に集められた。 |
|
旧東海道 川崎宿 宝暦11年(1761年)の大火
川崎宿200年で最大の火災である。小土呂から六郷渡し場まで町並みはほぼ全焼。再三の火災から立ち直った川崎宿であるが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たらない。 |
|
旧東海道 川崎宿 宗三寺
京急川崎駅の裏にあり、墓所には大阪方の浪人で元和元年(1615年)に川崎に土着した波多野一族の墓や、遊女の供養碑がある。探したが、見当たらなかった。 |
|
旧東海道 川崎宿 宗三寺 |
|
旧東海道 川崎宿 宗三寺 |
|
旧東海道 川崎宿 中の本陣
この付近にあった惣兵衛本陣は、佐藤、田中本陣の間にあることから「中の本陣」と呼ばれた。江戸後期には廃業した。 |
|
京急 京急川崎駅 |
|
いさご通り点描 |
|
いさご通り点描 |
|
旧東海道 川崎宿
川崎宿は350件ほどの建物が約1,400mにわたって軒を並べる賑わいを見せていた。元々川崎宿は砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には冠水の被害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るよう配慮され、川崎宿の設置にあたっては、宿域に盛り土が施されたと言う。
この標識は、休東海道から右折すると京急川崎駅に着く牛丼店の壁にあった。 |
|
旧東海道 川崎宿 |
|
旧東海道 川崎宿 砂子通り
六郷橋から続く旧東海道は、この砂子通りへと続いている。 |
|
旧東海道 川崎宿 旧東海道案内図
砂子と書いて、「いさご」と読む。 |
|
旧東海道 川崎宿 旧東海道案内図 |
|
いさご通りは旧東海道 |
|
川崎の有名作詞家 佐藤惣之助の碑
人生劇場、湖畔の宿や六甲颪の作詞家である佐藤惣之助の生家が砂子通りにある。 |
|
小土呂橋交差点
この場所が旧東海道の案内図にも表記されていた。 |
|
川崎 ラ チッタデッラ |
|
旧東海道 川崎宿 教安寺
|
|
旧東海道 川崎宿 教安寺 |
|
旧東海道 川崎宿 川崎宿京入口
宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出るといわゆる八丁畷の一本道、土居内には宿を構成する四つの町があった. |
|
日新町交番交差点 |
|
旧東海道 川崎宿 「麦の里」
元禄7年(1694年)に芭蕉は深川の芭蕉庵を出て、故郷の伊賀上野に向かった。見送りの弟子たちは川崎宿のこの辺りまで来た。弟子たちに芭蕉が詠んだ句が
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」
である。 |
|
旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑
八丁畷駅手前にある。 |
|
旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 |
|
旧東海道 川崎宿 芭蕉の句碑 |
|
京急 八丁畷駅 |