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旧東海道 浜川橋(涙橋)
立会川駅のすぐ脇を流れる立会川に架かる橋である。
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。
慶安4年(1651)、品川に推お仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。 |
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旧東海道 浜川橋(涙橋) |
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鈴ヶ森刑場遺跡
慶安4年(1651年)に開設された御仕置き場で、東海道に面している。歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693年)池上本門寺日顕上人の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。
ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋小駒などは演劇によって良く知られている。
江戸刑制史上、小塚原と共に重要な遺跡である。 |
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鈴ヶ森刑場遺跡 |
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鈴ヶ森刑場遺跡 ひげ題目供養碑
元禄6年(1693年)池上本門寺日顕上人が記した。 |
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鈴ヶ森刑場遺跡 火炙台
八百屋お七を初め、火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て足元に薪を積み縛り付けて処刑されたのである。 |
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鈴ヶ森刑場遺跡 磔台
丸橋忠弥を初め、罪人がこの台の上で処刑された。真中の穴に丈余の角柱が立てられ、その上部に縛り付けて刺殺したのである。
ちなみに鈴ヶ森で最初の処刑者は、由比正雪とともに幕府転覆を企てたといわれる丸橋忠弥である。 |
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鈴ヶ森刑場遺跡 |
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鈴ヶ森刑場遺跡 大震火災殃死者供養塔 |
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鈴ヶ森刑場遺跡 |
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鈴ヶ森刑場遺跡 |