|
東京メトロ(旧営団) 東西線 早稲田駅 |
|
早稲田通りに飾られた125周年記念の幟 |
|
早稲田通り 早稲田高校
早稲田直系の付属高校は早稲田高等学院だけである。経営がおかしくなったことからまず早稲田実業が、ついで早稲田高校が進学できる人数、学部の制約付きで系列高校になった。いずれも「早稲田」と言う地域にある高校だからである。 |
|
馬場下町交差点で左折、戸山キャンパスへ |
|
早稲田大学 戸山キャンパス
戸山キャンパスと言ってもピンと来ない。やはり文学部である。
125周年記念式典は、ここにある記念会堂で行われる。 |
|
早稲田大学 戸山キャンパス
嘗ては文学部と言っていたが、文学学術院と機構変更になっている。 |
|
早稲田大学 戸山キャンパス 記念会堂
約40年前の東京オリンピックのフェンシング会場としても使われ、大きな記念式典はここで行われる。 |
|
早稲田大学 戸山キャンパス
各キャンパスにはこのような胸像が設置されている。嘗ては本部(西早稲田キャンパス)の大隈侯像しかなかったが、いつからかは分らない。 |
|
馬場下町交差点 穴八幡神社
穴八幡宮神社は、 源義家が奥州征伐の帰りに、この地に兜と太刀を奉納したのが始まりと伝えられる。江戸時代、 敷地内に不思議な穴が見つかり、金属製の阿弥陀像が出土したことから、穴八幡宮というようになった。一般には穴八幡と呼ぶ。 |
|
南門通りを正門へ
戸山キャンパスから直進し、馬場下町交差点を渡り南門通りを進む。 |
|
南門通りに飾られた125周年記念の幟 |
|
早稲田大学 南門
右側は嘗ては本部図書館であり、理工学部(大久保キャンパス)から歩いて通ったものである。
40年前当時、調べものをするには理工学部の図書館は蔵書が少なかった。さすがに大学院時代は専門性が高いため、大学院専用図書館で間に合ったが。 |
|
早稲田大学 西早稲田案内図
南門脇にある案内図である。 |
|
早稲田大学 大隈講堂
大隈講堂は早稲田の象徴であり、昭和2年に竣工した。国の重要文化財に指定されることが決まり、塔の高さは125尺で、大隈侯の人生125年説に因んでいる。 |
|
大隈講堂前で記念式典を見る人々
記念会堂に入れる人は限られており、今流行のモニター付き自動車が大隈講堂前に設置されている。 |
|
創立125周年 稲門祭 |
|
創立125周年 稲門祭
記念グッズを売るテントがメインストリートに沿っていくとも並ぶ。 |
|
創立125周年 稲門祭
嘗て臙脂と黒のネクタイを買って着けていたが、早稲田所縁と言い当てたのは一人だけだった。同僚が早稲田を優勝に導いたラグビー部監督をしていたせいである。その時はネクタイの下にさり気なく「W」が刺繍されていたが、今は「WASEDA」となっており、着けるのはためらわれ、買うのは断念した。 |
|
創立125周年 稲門祭 |
|
早稲田大学 大隈重信銅像
早稲田大学の前身東京専門学校の創立者で、早稲田大学の初代総長をつとめた大隈重信(一八三八〜一九二二)の銅像である。
早稲田大学創立五十周年を記念して、昭和七年(一九三二)十月に完成したもので、鋳造・彫塑は朝倉文夫(一八八三〜一九六四)の作、桜花岡岩製の台石は桐山均一の手になるものである。
像高は二・八九メートル、台石の高さは二・一二メートルで、角帽にガウンを着た早稲田大学総長の姿をした、晩年の大隈重信を見事に表現している。
なお、朝倉は都合三回(芝公園・大正五年、国会議事堂内中央広場・昭和十三年)大隈重信像を製作しており、この早稲田大学の像は、二回目にあたるものである。 |
|
早稲田大学 建て替え中の商学部校舎 |
|
早稲田大学 大隈重信銅像
メインストリートを銅像側から大隈講堂にかけて見るアングルは有名である。 |
|
早稲田大学 大隈重信銅像 |
|
早稲田大学 懐かしの立て看板
40年前はこのような立て看板が本部(西早稲田キャンパス)の至る所にあった。 |
|
創立125周年 稲門祭
左の丸い帽子に紺のブレザー姿の小学生があちこちに見られた。何だろうと思ったら、早実が作った付属小学校の生徒で、胸に稲穂のワッペンが付けられていた。歴史ある慶応の幼稚舎に比べ、野暮ったい制服である。もっともそれが早稲田的、とも言えるかもしれない。 |