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二天門前交差点で馬道通りを渡る |
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工事休館中の台東区民会館前を東進
台東区民会館は観光バスの駐車場として利用されていたが、工事休館中のため花川戸公園付近で待機し、係員の誘導で写真右の都バスバス停で観光客を降ろしている。 |
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花川戸公園 |
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花川戸公園 姥ヶ池
蛯ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。 昔、浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込 む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死ぬ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを蛯ヶ池と呼んだ。 |
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花川戸公園 姥ヶ池 |
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東参道交差点で左折、江戸通りを北上
正面に東京スカイツリーがよく見え、建築中はこのまま直進して隅田公園に出るイベントがよく行われた。 |
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江戸通り 言問橋西交差点で言問通りを渡る |
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江戸通り 言問橋西交差点で言問通りを渡る
この交差点は五差路で、江戸通りは右折し、斜め右上から橋場通り、斜め左上に吉野通りが始まる。江戸通りを直進、言問通りを渡り橋場通りを北上、待乳山聖天に向かう。 |
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橋場通り 言問橋西交差点界隈案内図 |
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橋場通り 北めぐりん #3 隅田公園
バス停の右には区立隅田公園があり、後方に白い台東リバーサイド スポーツセンターが見える。次の信号の左に待乳山聖天がある。 |
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橋場通り 待乳山聖天 正門
待乳山聖天は、浅草寺の支院である。創建は推古天皇の9年(602年)の夏、旱魃にあえぐ人々に十一面観音が大聖尊歓喜天に化身し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀った事による。 |
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橋場通り 待乳山聖天 参道の階段
正門は閉鎖されており、橋場通りから左折して参道の階段を上る。 |
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橋場通り 待乳山聖天 参道 山門 |
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橋場通り 待乳山聖天 参道
待乳山聖天は、金龍山浅草寺の子院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(六〇一)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。特に江戸初期の歌人戸田茂睡の作
哀れとは夕越えて行く人も見よ
待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪搭などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺のご利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。
なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。 |
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橋場通り 待乳山聖天 参道
待乳山聖天境内の各所には大根と巾着が描かれている。ご利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表す。 |
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橋場通り 待乳山聖天 参道の先にある本堂 |
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橋場通り 待乳山聖天 本堂 |
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橋場通り 山谷堀公園 旧今戸橋 |
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橋場通り 山谷堀公園 旧今戸橋
山谷堀がいつ頃掘られたかはっきりしないが江戸の吉原との関係からみてもおそらく江戸初期にできたものであろう。 都下水道局ポンプ場のところから隅田川へと注ぐ約七〇〇メートルにおよぶ山谷堀は、北区の音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。 当時、この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名、山谷通いともいった。猪牙船などを仕立ててこのコースを使う遊興はぜいたくとされ、まさにおだいじん遊びだった。 堀の上流の方から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と九つの橋がかけられていたが、埋立に伴いすべて取り除かれており、橋台のみが昔の面影を残している。 現在は、水と緑の懇いの公園として整備されている。 |
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橋場通り 山谷堀公園 旧今戸橋 紅葉始めの桜並木
山谷堀を埋め立てて出来た公園で、吉原大門に向かう途中で山谷堀橋の橋台を通る。 |
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橋場通り 山谷堀公園 旧今戸橋 紅葉始めの桜並木 |