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JR 南武線 武蔵小杉駅 北口
常楽寺入口交差点〜常楽寺(まんが寺)〜春日神社〜宮内中学校〜等々力緑地〜川崎市市民ミュージアム
【撮影記録】
令和元年 10月 16日 曇り
10:20〜11:00 3,800歩(概算 2.5km 地図上の距離 1.2km)
武蔵小杉駅界隈の川崎市中原区の歴史を巡るイベントがあり、参加した。常楽寺(まんが寺)を起点に等々力緑地、名刹西明寺、小杉御殿遺構、京浜伏見稲荷トマグルコースである。このうち、常楽寺(まんが寺)以外は既に訪れたことがある。
4日前に台風19号が直撃し、武蔵小杉駅前を中心に冠水などの被害が出たが、常楽寺(まんが寺)で倒れた巨木の撤去作業が行われ、イベントの目玉だった川崎市市民ミュージアムでの漫画のらくろ展(「田河水泡と子供マンガの遊園地」展)が冠水で中止、閉館だった。持病の腰痛もあり、以降のコースは既に歩いていることもあって参加を中止した。 |
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府中街道 常楽寺入口交差点
武蔵小杉駅北口のバスターミナルから溝の口行きの東急バスに約10分乗り、等々力緑地の先の薬師前バス停で降りる。降りたすぐ先に常楽寺入口交差点があり、府中街道を渡って道標薬師如来脇を進む。 |
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府中街道 常楽寺入口交差点 道標 薬師如来
道標には摩耗しているものの正面に
「行基菩薩御作 藥師如來 春日山」
と書かれている。
春日山は常楽寺(まんが寺)の事である。 |
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府中街道 常楽寺入口交差点 道標 薬師如来
道標の左面には
「左、みそのくち/八王うし」 読めないが願主名
文政7年(1824)建立とのことで、約200年前の道標である。 |
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突き当りの石碑前で左折
突き当りに「春日山醫王院 常楽寺」の石碑があり、その横の参道を進むと薬師堂がある。今回は常楽寺(まんが寺)が目的なので左折して西進する。 |
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突き当りの石碑前で左折
川崎の緑化に
鎌倉時代道元禅師が中国から京都乙訓郡海印寺村 寂照院に請来した孟宗竹を贈ります
京都乙訓ロータリークラブ
友情の竹のみどりは 川崎の史跡と天然記念物の森に ながく根栄えて野鳥のお庭になりましょう
川崎北ロータリークラブ |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 入口
常楽寺の駐車場脇に聖観世音菩薩像が建つ。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 入口 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 入口
常楽寺の文化財
当寺は、真言宗智山派に属しています。
当寺には、数多くの文化財が所蔵されており、川崎市教育委員会は、つきの仏像を川崎市重要歴史記念物に指定しています。
木造・聖観世音菩薩立像は、一木造・彫眼で、平安時代末期(十二世紀ごろ)の制作です。
木造・釈迦如来坐像は、寄木造・玉眼で、室町時代(十四世紀ごろ)の制作です.。(以上、昭和四十三年二
月十日指定)。
木造・十二神将立像は、寄木造・玉眼で、室町時代(十五世紀ごろ)の制作です。なお、この十二躯には、墨書された木製銘札が納入されており、それによって願主や修理の経過等、宮内地区を中心とする庶民信仰の歴史を知ることができます。
多摩川右岸の沖積地に位置する、ここ″春日の杜″には、当寺および春日神社にちなむ古い歴史と豊かな社叢(川崎市重要史跡・天然記念物)がのこされています。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 入口
まんが寺の石碑がある。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 入口
七福神の石像と、打出の小槌を持った大黒天像があるが、常楽寺と七福神の関係は調べたが分からない。武蔵小杉界隈の七福神は川崎七福神と言われ、いずれも真言宗智山派の寺院であるが、大黒天は名刹西明寺である。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 参道を北上
最近のアニメブームにより、アニメファンの聖地として賑わっている寺院があり、それを商業的に利用する風潮がある。
常楽寺はそのような浮ついたところもなく、鬱蒼とした木々の間を歩いていく。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 参道を北上
参道内に2代の川崎市長による「鈴虫の碑」がある。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 本堂
本堂内の欄間に様々な色紙が飾られており、年代的には戦前のものである。但し、撮影は厳禁であり、参観は事前予約制で住職が初めに撮影禁止の注意を述べるだけで傍らに控えているだけである。
撮影禁止なのでまんがが紹介できない、と思っていたら最後にイベントの幹事経由で絵葉書が配られた。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 拝受された絵葉書の紹介
絵葉書として8枚のまんがが配布されている。収納されたケース裏には常楽寺、まんが寺の由来などが書かれている。
春日山医王院常楽寺
多摩川のほとりに、古いお寺と新しいお寺が仲よく同居しています。
古いお寺には、宮内庁書陵部に保存されている中右記(中御門右大臣宗忠日記の略)によりますと、平治元年(一一五九)に宮中の御願寺であったことが記されている。本尊聖観世音は十二世紀平安時代の作。そして宮内薬師を信仰された人たちによって長く護持された薬師如来日光月光十二神将とその信仰の記録など沢山の文化財が宝仏殿に保存されており、川崎市の重要史跡に、そして美しい森は市の天然記念物に指定されています。
新しい寺は明治生まれ、この寺に住して四十年の和尚が元禄のはじめに再建された本堂を解体修復するに当り、知り合いの大勢の漫画家により弘法大師の絵伝記、明治以後の歴史風俗を明るく楽しく、史実に忠実にユーモアを忘れず描いてもらったことから「まんが寺」と呼ばれるようになった。
本堂解体修復に当っては、その新しい補修材はすべて和尚の心のふるさとであり、生まれ故郷(高尾駅前大光寺)でもある明治の森、高尾山の銘杉を高尾山薬王院ご山主山本秀順法兄のご厚意で完成した。
これを記念して本堂の応接室を「高尾の間」とし、天井壁面杉戸のすべては高尾杉の銘板によって構成されている。今の若い人たちは「まんが」と云えば怪獣というが、ここに描かれたものはネ、ウシ、トラ、ウの十二支を漫画風に表現した快獣のパレード。
解説は和尚さんがこの寺を訪れる人たちへの説話の要約です。
ごらんの通り文化財でもあり、十五歳未満の若い人たちには理解もむづかしく、さわって汚染される懸念から、しばらく しばらくお待ち下さい。
昭和55年8月1日 記 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 拝受された絵葉書の紹介
三原山心中 富永一朗筆
二人の恋は清かったと、湯山八重子と調所五郎は、親に許されぬ恋を精算して坂田山に散りました。それから三原山心中が続く。あの世まで二人連れと体をしばると、とり押さえられました。抱き合ったまま、燃る火口に飛び込みますと、目方の重い男はズボーンと噴煙の抵抗も少く目的を果たしましたが、そのころの女性ハイテーヌのためにロングスカート、そのスカートが岩にかかって助かりました。その人の名は富田正子。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 拝受された絵葉書の紹介
女の髪型203高地 くらもと 勝巳筆
日露戦争で旅順の203高地は難攻不落でした。そのころの軍服は黒だったので、昼間の攻撃には目標となって多くの戦死者を出しました。
明治37年11月25日、第3回目の総攻撃で203高地はおちました。そのとき、要塞堅固だった明治女性に203高地という髪型が流行しました。当時、振られ続けた若者たちが203高地もおちたことだし、3回も攻撃すれば、やがておちるさとささやいています。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 拝受された絵葉書の紹介
男に生きる 宮崎市 寺原やすし筆
小野寺少尉は、上官谷口少佐の命令を待つこと29年。昭和49年3月10日陸軍記念日に、このように最敬礼して上官の呼びかけに応えた。谷口少佐が宮崎市在住のため、同市在住の寺原やすし画伯が、宮崎日向と川崎をカーヘリーで往復。壁装の位置を確認して執筆。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 本堂から見た風景
本堂の左には立派な薬師堂がある。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 本堂から見た風景
本堂の南側には鬱蒼とした林が広がる。 |
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真言宗智山派 春日山常楽寺 本堂から見た風景
本堂正面には参道がある。 |
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常楽寺境内 薬師堂 |
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常楽寺境内 春日神社
春日神社は中世期に奈良の春日大社の分霊を勧請したものである。
常楽寺と一体化した敷地内にあるが、両者の関係は不明である。 |
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常楽寺境内 春日神社前風景 |
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常楽寺境内 春日神社 台風で倒木した木の後始末風景
屋根に倒れかかったかなり大きな2本の倒木を切断中である。 |
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春日神社 参道入口 |
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春日神社 参道入口
春日神社御祭神
天津兒屋根命
菅原道真命
建速須佐之男命
伊奘諾命
稲倉魂命
春日神社年中行事
一、初詣 元旦 午前0時
一、元旦祭 元旦 午前二時
一、祈年祭 二月二十五日 午後二時
一、秋季例大祭 十月上旬
一、七五三祈願祭 十一月吉日
一、新嘗祭 十一月二十三日午後二時
一、大扱い 十二月二十九日 午後二時 |