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秋の大阪、京都散策H221001-02
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大阪 梅田〜淀屋橋〜本町
20数年ぶりに御堂筋を歩き、淀屋橋、心斎橋、道頓堀界隈、難波へと向かう。近道のなんばCITYを通り、今宮戎から通天閣、新世界、天王寺公園と経て名刹四天王寺に至る。10月というのに30℃近くあり、汗だくになりつつも、大きく変わり綺麗になった梅田界隈、釜ヶ崎ドヤ街(西成あいりん地区)に近くて物騒だった通天閣、新世界などを巡った。
梅田のシンボルである阪神前交差点の歩道橋を渡り、曽根崎警察署に出て御堂筋を南下する。現在時刻は11:35で、温度28.2℃、湿度51%、熱中症計は注意段階である。今年の関西は蒸し暑いと覚悟していたが、早くも汗が流れ落ちる。大阪駅前第四ビル、大阪駅前第三ビルを右手に見つつ、黄色のドラッグストア脇で左折するとお初天神(露天神社)の北門である。
菅原道真公が太宰府に配流の際、詠んだ歌に因み「露ノ天神社」と称する。元禄16年に堂島新地天満屋抱えのお初と内本町醤油屋平野屋の手代徳兵衛が情死したことから、お初天神と通称される。前方に梅田パシフィックビルが聳える正門から出る。
国道1号と2号の分岐点である梅田新道交差点で曽根崎道(国道1号)を渡る。新御堂筋と合流する梅新南交差点を過ぎ、堂島川に架かる大江橋を渡ると中之島で、夏の暑さ対策(ヒートアイランド対策)を目的にミスト散布をしている大阪市役所の向かいには日本銀行大阪支店がある。
淀屋橋から右側の土佐堀川沿いには住友関係のビルが建ち並び、住友村と言われる。淀屋橋交差点で土佐堀通を渡り、「御堂筋kappo2010」の幟が飾られた御堂筋を進み、北浜3丁目交差点に至る。
今橋3丁目交差点は歩き始めて45分の12:05で、温度28.5℃、湿度51%、熱中症計は警戒とアップし、蒸し暑さが増している。高麗橋3丁目交差点、瓦町3丁目交差点、北御堂、本町コアビルが聳える本町3丁目交差点を経て、船場中央3丁目交差点に着く。船場は繊維問屋街で、交差点の左右に問屋が並び、阪神高速の高架下に設けられた船場センタービルには多くの格安繊維小売店が並ぶ。御堂筋をさらに下り、南御堂、難波神社がある南久宝寺町3丁目交差点 旧そごうの大丸心斎橋店北館、本館と歩き、周防町交差点を通る。
大阪 道頓堀〜難波〜今宮戎
道頓堀川に架かる道頓堀橋を渡り、道頓堀橋北詰交差点で左折、道頓堀へ入るとすぐにネオ・ルネッサンス様式の大玄関が際立つ大阪松竹座がある。心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街の境界で、グリコの大看板が有名な戎橋を始め、道頓堀界隈は多くの観光客で賑わっている。
巨大カニで有名な「かに道楽」道頓堀本店、くいだおれ太郎のグッズ販売店となった「旧くいだおれ」を見つつ、フグの張りぼての「づぼらや」の前の中座脇から法善寺横丁を南下、法善寺(みずかけ不動)を見た後、突き当りで右折、千日前通りへ進む。以前のみずかけ不動は全身濡れた銅像だったが、今はびっしりと苔に覆われ、不動の怒りの姿は見えない。
千日前通りの交差点で左折、戎橋筋商店街へ入り南下、南海難波駅前のランドマーク島屋大阪店前に着く。なんばマルイ横の南海通を進み、ゲームセンターのスウィング吉本の中に入り、突き当りを左折すると正面にエンタツ・アチャコなどの絵看板が飾られているなんばグランド花月(吉本会館)と、一時は廃止か移転が決まりかけていたワッハ上方がある。
島屋大阪店の中にあり、様々なファッション店が並ぶなんばCITY本館を南下、蔵前通りを渡り、南館を進んで突き当りで左折する。南館は南海線の高架下に設けられているため、狭い通路の両方にいわゆる飲み屋がずらりと並ぶ。
南海高野線の高架沿いに南下し、今宮戎駅前交差点で左折、国道25号へ入り、今宮戎駅東交差点で左折、今宮戎神社に着く。意外と狭い今宮戎神社の創建は古く、推古天皇8年(600)で、四天王寺の西方守護神として祀られたという。「えべっさん」として親しまれ、毎年選考会が行われる福娘が並ぶ十日戎で有名である。今宮戎神社から戻り、今宮戎駅東交差点で左折、国道25号へ進む。
大阪 通天閣〜天王寺公園〜四天王寺
国道25号の恵美須交差点で堺筋を渡り、斜め右上の通天閣本通へ入り、南東に進む。通天閣は高さ103.3m、入場料は600円で、5階の展望台に行く。手垢で真っ黒になったビリケン像があり、展望台からは足元の天王寺公園、一心寺、四天王寺、遠くに大阪港が見える。
新世界の通天閣南本通を南下して「づぼらや」前で左折、新世界公園本通を歩き、新世界ゲート前に四天王寺動物園がある。新世界は昔の薄汚く物騒な雰囲気はなくなり、大小様々な金のビリケン像や、串カツ屋が至る所にある。
天王寺動物園横の連絡歩道橋入口から階段を上り、動物園の上を歩き、突き当りの天王寺公園美術館下ゲートで左折、天王寺公園と動物園の間を進む。突き当りを右折、一心寺と天王寺公園の間を進み、突き当りを左折、谷町筋へ入り北上する。
谷町筋の四天王寺前交差点で右折、四天王寺の日本三鳥居である石の鳥居から四天王寺に入る。(四天王寺は別ページに整理)南門から出て国道25号へ入り、北河堀交差点で左折し上町筋へ進み、五條宮前交差点で左折後、五條宮前西交差点で直進、天王寺警察署通りを西進、天王寺警察署西交差点で左折、谷町筋の四天王寺前夕陽ヶ丘駅に至る。
四天王寺は、聖徳太子が推古天皇元年(593)に摂政皇太子として最初に建立された寺で、谷町筋の日本三鳥居の石の鳥居から入る。その横には葬送の時、太子自らこの上に影向され浄土に導く影向引導石がある。西大門(極楽門)を抜け、西重門で拝観料を払った後、講堂が付いた回廊に囲まれた中に五重塔と、金堂を見る。
出て右に進み、北鐘堂(北引導鐘堂)、重要文化財の石舞台と六時礼讃堂(六時堂)前を過ぎ、南鐘堂(南引導鐘堂)から東にある宝物館、太子殿(聖霊院)の猫の門、虎の門を通り、太子殿(聖霊院)に入って前殿、奥殿を見る。南に回り、中門(仁王門)を見た後、南大門から外に出る。
京都 北大路駅〜大徳寺〜千本北大路交差点
京都市営地下鉄烏丸線の北大路駅前で右折、北大路通へ入り、大谷大学、立命館大学附属小学校、北大路新町交差点と過ぎて、堀川北大路交差点で左折、堀川通へ進む。堀川通に入ってすぐに小野篁、紫式部の墓がひっそりとある。墓が並んでいるのは、9世紀前半の参議で、夜は閻魔大王に仕えた小野篁が、愛欲を描いた咎で地獄に落とされた10世紀後半の女官紫式部を閻魔大王にとりなした、という伝説に基づく、という説がある。
北大路通へ戻り、大徳寺脇を南下、南門から大徳寺に入る。(別ページに整理)大徳寺から出て建勲神社前交差点で右折、北大路通へ入り千本北大路交差点に至る。
2部に分けて大徳寺の写真を掲載し、これは最初の1部である。
大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺城に別院2寺と21の塔頭を有する。鎌倉末期の正和4年(1315)に、大燈国師(宗峰妙超)によリ開創され、花園天皇と後醍醐天皇の厚い信仰を受けた。応仁の乱で建物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている47世住持の一休宗純が堺の豪商の保護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建物はほとんど整えられた。
大徳寺の南門から参道を北上、織田信長が父・信秀の追善菩提のため、永禄5年(1562)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じ祝女俶和尚を開祖として建立した黄梅院、文亀2年(1502)に大徳寺第72世住職・東渓宗牧を開山として、能登領主・畠山義元が豊後の大友義長らとともに創建した龍源院を通り、突き当りの右には旧大宮通に出る総門がある。左には前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門、後水尾天皇より拝領したと伝えられる勅使門(重要文化財)がある。
総門から勅使門を経て進んだ角に平家打倒の鹿ヶ谷の陰謀の首謀者の一人として、鬼界ヶ島に流された平康頼之墓がある。柵が設けられ近づくことが出来ない三門(重要文化財)は、千利休居士により二階部分が設けられた。三門の左には大永年中より天文2年間(1521〜1533)に、能登の戦国大名・畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立した興臨院がある。その先には天文4年(1535)に九州の戦国大名・大友義鎮(宗麟)が徹岫九和尚を開祖に迎え建立した瑞峯院がある。
2部に分けた大徳寺の2部目である。
三門(重要文化財)左の参道を北上、仏殿(重要文化財)、法堂(重要文化財)、その参道の向かいの三玄院と経て、突き当りに大徳寺宗務本所がある。仏殿(重要文化財)は当山第1世大現国師が創建、応仁の乱にて消失、一休和尚等によって再建されるが、寛文5年(1665)那波常有によって改めて建造された。法堂(重要文化財)は、正中2年(1325)夏、宗印禅者を檀越として修造を始めるが応仁の兵乱によって消失、寛永13年(1636)、開山国師三百年遠諱に当たり、江月和尚の参徒、小田原城主稲葉丹後守正勝、正則父子により現在地に再建。
三玄院は天正17年(1589)、浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が、春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。小堀遠州・古田織部・藪内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学び、沢庵・千宗旦らも修行をし、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。大徳寺宗務本所から参道を西進、右には織田信長の総見院があるが、非公開である上、一つの塀で囲まれて、どこにあるのかさえ分からない。瑞雲軒、近衛家廟所と過ぎて高桐院角で左折、南下する。高桐院は、江戸時代初期の武将で茶人としても有名な細川忠興(三斎)が、父・幽斎の弟・王甫章早紹jを開祖として建立した細川家の菩提寺である。境内には三斎と夫人ガラシャのほか、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国らの墓がある。玉林院を経て、民家の間を歩き、北大路通に向かう。
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