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三井寺駅〜三井寺(園城寺)(仁王門〜金堂)

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京阪 石山坂本線 三井寺駅 京阪 石山坂本線 三井寺駅 

三井寺駅から琵琶湖疏水沿いに西進、最初の交差点で右折し、次の交差点で左折して直進すると突き当りの三井寺(園城寺)に着く。
琵琶湖疏水沿いに西進 琵琶湖疏水沿いに西進 
琵琶湖疏水沿いに西進 北国橋交差点で右折 琵琶湖疏水沿いに西進 北国橋交差点で右折 
次の交差点で左折、滋賀県道47号へ 次の交差点で左折、滋賀県道47号へ 
次の交差点で左折、滋賀県道47号へ 次の交差点で左折、滋賀県道47号へ 

交差点角に琵琶湖疏水や三井寺への道標が建てられている。
滋賀県道47号 突き当りの園城寺前交差点 滋賀県道47号 突き当りの園城寺前交差点 

交差点を直進して三井寺(園城寺)に入る。

園城寺【三井寺】

園城寺(三井寺)は、天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の一つに数えられています。
その歴史をひもとくと、天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのにはじまります。俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師が、当寺の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来します。
長い歴史の上で、当寺は再三の兵火にあい焼失しましたが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。
三井寺(園城寺) 大門(仁王門)前 レストラン風月 三井寺(園城寺) 大門(仁王門)前 レストラン風月 
三井寺(園城寺) 大門(仁王門) 三井寺(園城寺) 大門(仁王門) 

仁王門【重要文化財】

宝徳四年(一四五二)の建立。浄域への表門として慶長六年(一六〇一)、徳川家康により甲賀の常楽寺より移築、寄進された。
三井寺(園城寺) 大門(仁王門)前  参拝ガイド 境内案内図 三井寺(園城寺) 大門(仁王門)前  参拝ガイド 境内案内図 
三井寺(園城寺) 大門(仁王門)前 三井寺 三井寺(園城寺) 大門(仁王門)前 三井寺 

 三井寺は正式には園城寺と称し、創建以来千三百年の歴史と数数の史実や伝説に満ちあふれた巨刹であり。平安時代には四箇大寺(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺)の一つに数えられ、現在も山岳寺院として長等山山腹に広大な境内地を有している。
 境内に散在する国宝や重文の建物をはじめ、諸堂宇の景観はさながら建築博物館の様を呈している。なかでも金堂(1599建立)は桃山建築の粋をこらし、桧皮葺の入母屋造りがすばらしい。また近江八景の一つ三井の晩鐘や、西国第十四番の霊場である三井寺観音堂などもよく知られ、多くの参詣者で賑わっている。
三井寺(園城寺) 重要文化財 建築物 園城寺大門(仁王門) 三井寺(園城寺) 重要文化財 建築物 園城寺大門(仁王門) 

園城寺大門(仁王門) 一棟

 この大門は、三間一戸、屋根入母屋造、檜皮葺の楼門です。宝徳四年(1452)に滋賀県甲賀郡石部町の常楽寺に建てられ、のち伏見城に移され、さらに慶長六年(1601)徳川家康の寄進によって園城寺へ移されたもので、仁王門とも呼ばれています。
 楼門としては、正規の手法にのっとったもので、全体の均斉もよくとれた美しい姿をしています。また、檜皮葺の屋根がやわらかい感じを与えています。その他、細部の蟇股や木鼻などの彫刻や斗?などの組物に室町時代中期の特色が見られます。いずれにしても楼門のなかでも代表作にあげられるものです。
明治三十三年四月に国の指定文化財になっています。
三井寺(園城寺) 釈迦堂(食堂)  三井寺(園城寺) 釈迦堂(食堂)  

釈迦堂(食堂)

 御所の清涼殿を移築したと伝え、多くの僧侶たちがいた大寺院の「食堂」の様式をもった室町時代の建築です。  平安時代には、著名な歌人・藤原公任(九六六〜一〇四一年)が、千僧供養や結縁灌頂の壇主となって食堂において法会を行ったとの記録もあり、ふるくから釈迦如来をまつっています。
 本尊の釈迦如来像は、「三国伝来の釈迦」として信仰を集めてきた京都嵯峨・清涼寺ご本尊の模刻像で、釈尊のお姿をそのまま写したとされ、その独特の尊容から 「清涼寺式」と呼ばれています。
三井寺(園城寺) 釈迦堂(食堂)  三井寺(園城寺) 釈迦堂(食堂)  

園城寺食堂(釈迦堂) 一棟

 食堂は、桁行七間、梁間四間、一重、檜皮葺、入母屋造の建物で、もと御所の清涼殿であったという伝承があります。現在は釈迦如来がまつられ、釈迦堂の名称で親しまれています。
 全体としては簡素な建築で、後世の改造も多く、唐破風の向拝は江戸時代に付けられたものですが、内陣部分や須弥壇には古い手法が残されており、特に須弥壇に精巧な彫刻が施されています。
 建築年代は室町初期と推定され、正面一間通りが開放となっているところや、扉口が両端の間のみにあるところは、かつての食堂の形式を伝えているものと考えられています。
 明治四十五年(1912)二月に国の重要文化財になりました。
三井寺(園城寺) 釈迦堂(食堂)  三井寺(園城寺) 釈迦堂(食堂)  

釈迦堂【重要文化財】

室町初期の建築で、中世寺院の食堂(じきどう)の様式を伝える。本尊に清涼寺式釈迦如来をまつる。
三井寺(園城寺) 三井寺の総本堂 桃山時代を代表する名建築 国宝 金堂 三井寺(園城寺) 三井寺の総本堂 桃山時代を代表する名建築 国宝 金堂 

智証大師

開祖智証大師円珍和尚は、弘仁五年(八一四)讃岐国に生まれました。母は弘法大師の姪に当ります。
比叡山での十二年籠山修行中、大師一生の信仰を決定づける黄不動尊を感得されました。これこそ今日も秘仏として伝わる国宝・黄不動尊(金色不動明王)画像です。
貞観元年(八五九)、園城寺初代長吏となり、貞観十年には第五代の天台座主として二十四年の長きにわたり、日本仏教の発展に尽くされました。
寛平三年(八九一)十月二十九日、七十八歳をもって入寂され、後に醍醐天皇より「智証」の大師号が贈られました。
三井寺(園城寺) 金堂下 智証大師御遺誡 三井寺(園城寺) 金堂下 智証大師御遺誡 

智証大師(園城寺 御開山) 御遺誡

如来は法を以って身と為し比丘は
慧を以って命と為す法慧苟も
伝はらば何ぞ死あらむや


仏様は宇宙の真理をもって不滅の命(法身)とし給ふ 仏道を修行する者は仏教の教え真理の智慧をもって使命とすべきである 是の如く真理とそれを実践教導する道が両輪の如く活かされ伝えるならばこの身は滅ぶとも法慧は亡びず永遠につづくであろう 汝ら悲しむべからず 能く精進 能く努力すべし
三井寺(園城寺) 日本三名鐘 近江八景 三井の晩鐘 三井寺(園城寺) 日本三名鐘 近江八景 三井の晩鐘 

鐘楼【三井晩鐘・重要文化財】

慶長七年(一六〇二)の再建。梵鐘は、近江八景「三井の晩鐘」で知られる。宇治の平等院、高雄の神護寺と共に日本三銘鐘に数えられ、荘厳な音色は有名で、「日本の残したい音風景百選」にも選ばれている。
三井寺(園城寺) 日本三名鐘 近江八景 三井の晩鐘 三井寺(園城寺) 日本三名鐘 近江八景 三井の晩鐘 

 思うその 暁ちぎる はじめぞと
        まず聞く三井の 入相の鐘

近江八景「三井の晩鐘」で知られる大鐘は、ことに音色が優れており、古来より「音の三井寺」と称され、形の平等院、銘の神護寺とともに「日本三名鐘」のひとつに数えられています。
三井寺(園城寺) 三井寺の総本堂 桃山時代を代表する名建築 国宝 金堂 三井寺(園城寺) 三井寺の総本堂 桃山時代を代表する名建築 国宝 金堂 

金堂【本堂・国宝】

当寺の総本堂。本尊の弥勒仏は天智天皇が信仰されていた霊像で、秘仏として静かにまつられている。現在の建築は、豊臣秀吉の北政所により慶長四年(一五九九)に再建された。桃山時代を代表する名建築として知られている。
三井寺(園城寺) 三井寺の総本堂 桃山時代を代表する名建築 国宝 金堂 三井寺(園城寺) 三井寺の総本堂 桃山時代を代表する名建築 国宝 金堂 

 天智天皇ゆかりの寺として七世紀に創建されて以来、一千三百余年の永い歴史を刻んできた天台寺門宗の総本山三井寺の総本堂です。
 秘仏の弥勒仏は、後白河法皇はじめ歴代の天皇や源頼朝、足利尊氏、徳川家康など武将から篤い信仰を集めてきました。
 平安、鎌倉時代を通じて、源平の争いや南北朝の動乱などにより再建を繰り返してきました。
 現在の建物は、豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたもので、桃山文化を代表する壮大華麗な名建築として国宝に指定されています。
 堂内には、ゆかりの多くの仏像が安置され、三井寺の信仰と歴史にふれていただくことができます。
三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 

一伝説一弁慶の引き摺り鐘

奈良時代の作とされるこの梵鐘は、むかし俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。その後、山門(延暦寺)との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると、「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺へ帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。その時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。
三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 

霊鐘堂【弁慶の引摺り鐘・重要文化財】

奈良時代の梵鐘。俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰ったと伝えられる。また、中世の「山寺両門の争い」を象徴する「弁慶の引摺り鐘」伝説で知られる。
三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 

重要文化財 霊鐘・弁慶の引摺り鐘

 世に「弁慶の引摺り鐘」として名高い大鐘。
 伝説によると、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が、三上山の大ムカデを退治した功により、琵琶湖の龍神からもらい受けた鐘を三井寺に寄進したものと伝えられています。
 その昔、三井寺が比叡山と争ったとき、比叡の荒法師・武蔵坊弁慶が三井寺に攻め入り、この鐘を奪って比叡山まで引摺り上げて撞(つ)いてみると、「イノー、イノー」(帰りたい)と響いたので、「そんなに三井寺へ帰りたいのか」 と谷底へ投げ落としたといいます。 その時のものと思われる引摺った疵痕やヒビがいまも残されています。

 さざ浪や 三井の古寺 鐘はあれど
    むかしにかへる 音はきこへず
      三井寺法印定円

 その後、この鐘は、三井寺に凶事が迫ったときには、前兆として鐘の表面に汗をかき、撞いても音を出さなかったといわれ、三井寺を鎮護する「霊鐘 として大切に伝えられてきました。
三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 

幾多の災厄を乗り越えてきた霊鐘です。武蔵坊弁慶のように困難に向い、未来への勇気を授かるとされています。
三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 
三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 三井寺(園城寺) 伝説の名鐘 弁慶鐘 
三井寺(園城寺) 弁慶の汁鍋 三井寺(園城寺) 弁慶の汁鍋 

弁慶の汁鍋

 江戸時代の観光ガイドブック「近江名所図会」にも「弁慶の汁鍋」として紹介されています。寺伝によると、武蔵坊弁慶が所持していた大鍋で、三井寺の大鐘を奪い取ったときに残していったものと伝えられています。
 また、総兵たちが用いたことから「千僧の鍋」とも言い、鋳鉄製の大器で、三段に鋳継ぎされ、上段には、かまどにかけるための上縁がついてます。
三井寺(園城寺) 弁慶の汁鍋 三井寺(園城寺) 弁慶の汁鍋 
三井寺(園城寺) 閼伽井屋 三井寺(園城寺) 閼伽井屋 

閼伽井屋【三井の霊泉・重要文化財】

天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いられたという泉が涌く。泉を護る覆屋は慶長五年(一六○○)の建立。正面上部にある左甚五郎作の龍の彫刻で有名。
三井寺(園城寺) 閼伽井屋 三井寺(園城寺) 金堂 熱中症計は注意 

現在時刻は15:15で、温度25.0℃、湿度は88%、熱中症計は注意である。

前回の比叡山シャトルバス 比叡山頂駅乗り場は時刻は11:15で、温度18.0℃、湿度は69%、熱中症計は警戒であった。4時間後の金堂では雨が激しく、低地ということもあって温度は7℃上がり、湿度は19%も上がって蒸し暑い。

このような天気ということもあり、石手寺参拝は諦め、大阪に戻ることにした。
三井寺(園城寺) 金堂から階段を下り大門(仁王門)へ 三井寺(園城寺) 金堂から階段を下り大門(仁王門)へ 

雨に濡れた急な階段は危険であった。



 
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