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伊皿子坂〜細川家藩邸跡〜伊皿子交差点

【関連サイト】   赤穂義士祭 自刃の遺跡巡り(泉岳寺、自刃四藩邸、荻生徂徠墓所)H241214(細川家下屋敷跡〜魚藍坂〜荻生徂徠墓所

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泉岳寺 参道から突き当りで左折、都道415号高輪麻布線へ 泉岳寺 参道から突き当りで左折、都道415号高輪麻布線へ 

直進すると京急/都営 浅草線の泉岳寺駅がある泉岳寺交差点に出る。
都道415号高輪麻布線 幸福の科学 都道415号高輪麻布線 幸福の科学 

ギリシャ神殿風の建物で、規模の大小はあるものの各地の幸福の科学は皆同じ作り方である。あまり趣味がいいとは思えない。
都道415号高輪麻布線 幸福の科学 熱中症計はほぼ安全 都道415号高輪麻布線 幸福の科学 熱中症計はほぼ安全 

現在時刻は10:10で、温度12.0℃、湿度は低すぎて計測できず、熱中症計はほぼ安全である。

天気予報では最高気温10℃であるが、北の丸公園の木陰で測る天気予報よりは高くなる。
都道415号高輪麻布線の突き当りで左折、伊皿子坂を上って西進 都道415号高輪麻布線の突き当りで左折、伊皿子坂を上って西進 
都道415号高輪麻布線 伊皿子坂を上って西進 都道415号高輪麻布線 伊皿子坂を上って西進 

明国人伊皿子(いんぺいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも「いいさらぶ(意味不明)」の変化ともいう。
都道415号高輪麻布線 伊皿子坂を上って西進 都道415号高輪麻布線 伊皿子坂を上って西進 
都道415号高輪麻布線 伊皿子坂 界隈案内図 都道415号高輪麻布線 伊皿子坂 界隈案内図 
 都道415号高輪麻布線 伊皿子交差点で左折、二本榎通りへ 都道415号高輪麻布線 伊皿子交差点で左折、二本榎通りへ 

右折すると聖坂となり慶応大学正門近くに出る。直進して魚藍坂を下ると、赤穂義士の切腹を提言した荻生徂徠の墓がある長松寺がある。左折すると旧高松宮邸(高輪皇族邸)を経て、大石内蔵助が自刃した細川家藩邸に至る。
二本榎通り 旧高松宮邸(高輪皇族邸) 二本榎通り 旧高松宮邸(高輪皇族邸) 

伊皿子交差点から少し先にあり、有栖川宮家を継いだ高松宮家も廃絶となり、現在は無住の高輪皇族邸となっている。
二本榎通り 都営高輪一丁目アパート北角の道 二本榎通り 都営高輪一丁目アパート北角の道 

この道を右折、直進して途中で左折すると大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)がある。分かりやすいのはアパート入口の案内柱で右折する方であるが、イベントなどで大勢の人が出入りする場合は住民の迷惑になるのでここで曲がるよう指示される。
二本榎通り 都営高輪一丁目アパート 案内図 二本榎通り 都営高輪一丁目アパート 案内図 
二本榎通り 都営高輪一丁目アパートで右折、赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)へ 二本榎通り 都営高輪一丁目アパートで右折、赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)へ 


旧高松宮邸(高輪皇族邸)の先にある都営高輪一丁目アパートの奥にある。摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑がなければ見落とすし、自刃跡地も一番奥なので分り難い。都営高輪一丁目アパートの奥に塀で囲われた一画があり、そこが大石良雄等自刃ノ跡である。

この地については、細川藩中屋敷とする資料もある。「大石良雄外十六人忠烈の跡」碑によれば、下屋敷とあり、ここでは後者を採った。
二本榎通り 都営高輪一丁目アパートで右折、赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)へ 二本榎通り 都営高輪一丁目アパートで右折、赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)へ 

泉岳寺の北側の崖の上に二本榎通りがあるが、義士祭で賑わう泉岳寺と違い近くなのに訪れる人はいない。
二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 

鍵の掛かった門があり、立ち入ることはできない。
二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 

大石良雄外十六人忠烈の跡

この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩(五十四万石)細川越中守下屋敷の一部である。赤穂事件とは、元禄十四年(一七〇一)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日の夜から十五日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。当時の藩主五代綱利は、十二月十五日老中稲葉丹後守正往(下総佐倉藩主)から大石内蔵助外十六人御預けの命を受けると、総勢八七五人に十七挺の駕龍と予備として五挺の駕龍を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送った。引渡を受けたのは午後十時頃で、この地に到着したのは午前二時過ぎであった。この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。細川藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。
 元禄十六年(一七〇三)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十左衛門政羽とお御使番久永内記信豊から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は十七人の切腹に十七人の介錯人を選定した。切腹の場所は大書院舞台側、大番院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。切腹の座には畳三枚を敷き並べ(細川家以外は二枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。大石内蔵介は安場一平の介錯で切腹した。大石良雄外十六人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。
二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 

大石内蔵助以下17名の名前と享年が書かれている。
二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 

赤穂義士史跡碑

正義を愛し名節を重んじる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡 実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である。

細川家は藩主を始めとし赤穂義士を武士の鑑として厚遇したことで知られ、罪人扱いした毛利家などと違い、夕食時には酒も出した。
二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 
二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) 

扉の隙間から撮っているので全体が分かりにくいが、自刃の庭である。
赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)前で右折、突き当りで右折 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)前で右折、突き当りで右折 
 都営高輪一丁目アパート北の道を南進、突き当りで左折し二本榎通りへ 都営高輪一丁目アパート北の道を南進、突き当りで左折し二本榎通りへ 

イベントで大勢の人が参加する場合はこのルートで赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)に向かう。
二本榎通り 伊皿子交差点で左折、都道415号高輪麻布線 魚籃坂へ 二本榎通り 伊皿子交差点で左折、都道415号高輪麻布線 魚籃坂へ 

直進すると聖坂と名前が変わり、亀塚公園を経て三田に向かう。



 
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