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橋場通り〜橋場不動尊(布袋尊)〜石浜神社(寿老人)

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今戸神社前交差点からの小道を進み、突き当りで左折、橋場通りを北上 今戸神社前交差点からの小道を進み、突き当りで左折、橋場通りを北上 
橋場通りを北上 隅田公園 橋場通りを北上 隅田公園 

ここからの道は初めてであり、距離感がつかめない。
橋場通りを北上 台東区立 桜橋中学校 橋場通りを北上 台東区立 桜橋中学校 
橋場通りを北上 浅草病院 橋場通りを北上 浅草病院 
橋場通りを北上 浅草人権プラザ前交差点、特養 橋場すみれ圓 橋場通りを北上 浅草人権プラザ前交差点、特養 橋場すみれ圓 
橋場通りを北上 奥浅草寺町通り 橋場通りを北上 奥浅草寺町通り 
橋場通りを北上 特養 橋場すみれ圓、オーケー橋場店 橋場通りを北上 特養 橋場すみれ圓、オーケー橋場店 
 橋場通りを北上 区立 石浜図書館 橋場通りを北上 区立 石浜図書館 
橋場通りを北上 橋場二丁目交差点 橋場通りを北上 橋場二丁目交差点 

橋場通りを北上 橋場不動尊(布袋尊) 橋場通りを北上 橋場不動尊(布袋尊) 

茶色の普通のビルの隣の少し奥まった所に橋場不動尊(布袋尊)の参道が唐突に現れ、危うく見落とすところだった。
橋場不動尊(布袋尊) 橋場不動尊(布袋尊) 

橋場不動尊は、天平宝字四年、奈良東大寺大仏の建立に尽力した良弁僧正が、相州大山寺で、一刀三礼して刻まれた一木三体不動(一本の木で三体の仏像を彫る)の随一と称せられ、悪魔降伏の威想を備え、信ずる者には必ず霊験を与え給う不可思議の尊像として、古来よりご秘仏としてあがめられています。
江戸時代には橋場寺として、周辺の三条公、有馬侯、池田備前侯等をはじめとする武家屋敷の人々の尊信を集め、現在の本堂は江戸時代の建立で、小堂ながら美しく、江戸時代の特徴をよく現しています。明治末年の大火や関東大震災、戦炎などに、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍を免がれたことから、「霊験あらたかな火伏せの橋場不動尊」として、信仰の的となっています。

現在では、毎月二十八日、近隣の人々が、霊験貴き不動明王の威神力を仰ぎ、家内安全、厄災招福等々諸願成就の護摩供を厳修し、別して、正月、五月、九月の厄月には、特別大護摩を修して、信者各位の心願成就を祈念しています。
橋場不動尊(布袋尊) 橋場不動尊(布袋尊) 

細く長い参道の先に本堂が見えた時は小寺か、と思ったが脇に大きな建物があった。見落とした可能性もあるが、寺の来歴案内などはなく、参拝客も個人参拝は少なく、七福神巡りのツアー客でごった返ししていた。
橋場不動尊(布袋尊) 参道を出て左折、橋場通りを北上 橋場不動尊(布袋尊) 参道を出て左折、橋場通りを北上 
橋場通り 白鬚橋西詰交差点で明治通りを渡り、川の手通りへ 橋場通り 白鬚橋西詰交差点で明治通りを渡り、川の手通りへ 

橋場不動尊(布袋尊)から橋場通りは上り坂になり、上った所が白鬚橋西詰交差点でその先に石浜神社(寿老人)の鳥居、本殿が見える。
橋場通り 白鬚橋西詰交差点で明治通りを渡り、川の手通りへ 橋場通り 白鬚橋西詰交差点で明治通りを渡り、川の手通りへ 

右に隅田川に架かる白髭橋がある。
橋場通り 白鬚橋西詰交差点で明治通りを渡り、川の手通りへ 橋場通り 白鬚橋西詰交差点で明治通りを渡り、川の手通りへ 
橋場通り 白鬚橋西詰交差点で明治通りを渡り、川の手通りへ 橋場通り 白鬚橋西詰交差点で明治通りを渡り、川の手通りへ 

本当は橋場通りも含めて川の手通りとする予定だったが、歴史ある名前をなくすな、という台東区の強い反対で白鬚橋西詰交差点から北が川の手通りとなった。
川の手通り 石浜城址公園、石浜神社(寿老人) 川の手通り 石浜城址公園、石浜神社(寿老人) 

公園と言うより何もない広場、といった趣である。石浜城址の案内板は見当たらない。

石浜城は下総の名族千葉氏が武蔵に逃れて最初に拠った城です。しかし荒川(現在の隅田川)の西岸に存在した事は文献により確かなのですが、その所在については2説があり日本城郭大系でも2説を併記しています。しかし、荒川区の郷土資料や関連史実を調べたり、さらには江戸時代の地割り図や、区画整理前の大正時代の地図を見比べたり(注3)してみると、やはり石浜神社周辺にあったという説が最有力のようです。
川の手通り 石浜神社(寿老人) 川の手通り 石浜神社(寿老人) 
川の手通り 石浜神社(寿老人) 鳥居 川の手通り 石浜神社(寿老人) 鳥居 
川の手通り 石浜神社(寿老人) 鳥居 川の手通り 石浜神社(寿老人) 鳥居 
川の手通り 石浜神社(寿老人) 鳥居 川の手通り 石浜神社(寿老人) 鳥居 
川の手通り 石浜神社(寿老人) 鳥居 川の手通り 石浜神社(寿老人) 鳥居 

墨のかすれか、文字が非常に読みにくく解読できなかった、

石浜神社(寿老人)のホームページには以下のように記されている。

大鳥居

第一鳥居(参道入口手前)は、安永8年(1780)、麁香様の開帳の年に建立。笠木(横柱の上部のもの)のカマボコ型様式は、神明造りには珍しいものです。
第二鳥居(参道の奥)は、寛延2年(1749)の建立。柱に刻まれている山川、高木は橋場の名主の名。様式で額束(がくづか:横柱の中央にある短い支柱)のある型は、神明造りでは珍しいとされます。
 川の手通り 石浜神社(寿老人) 本殿 川の手通り 石浜神社(寿老人) 本殿 

当社は、聖武天皇の神亀元年(724)9月11日、勅願によって鎮座され、以来1296年の歴史を持っています。

文治5年(1189)、源頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進、弘安4年(1281)、蒙古襲来の折、必勝を祈念しての、鎌倉将軍家お取り次ぎによる官幣(かんぺい:天皇から神に捧げる礼物)のご奉納などを経て、中世初めには大社としての発展を見ました。
殊に、千葉氏、宇都宮氏などの関東武将の信仰は篤く、関八州より、多くの参詣者を集めたと、伝えられています。

東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、江戸近世における社運はさらに隆昌、『江戸名所図会』(※)などにも大きく納められるところとなり、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せました。明治5年(1872)、郷社に格付けされ、以後、時の流れと共に名称などに変化はあったものの、ご神徳・社運の輝きはいよいよ高く、今日に及んでおります。
川の手通り 石浜神社(寿老人) 富士山遙拝所 川の手通り 石浜神社(寿老人) 富士山遙拝所 

宝暦8年(1758)の建立。当時普及を見た富士信仰講の記念の一つです。
川の手通り 石浜神社(寿老人) 「浅草名所七福神」みちしるべ 川の手通り 石浜神社(寿老人) 「浅草名所七福神」みちしるべ 

寺社の位置関係は分かるが、距離感が正しくなく、都バスの停留所や地下鉄駅も表示されているが、路線が記されていないので実用には供さない。



 
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