馬喰町繊維問屋街〜浅草橋〜駒形橋〜浅草


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馬喰町繊維問屋街 馬喰町繊維問屋街 

何回か土曜日に来ているが、ほとんどの店が閉まっていた。休日閉店かと思っていたが、朝9時半頃ばかりであり、今回のように10時半だと買い物客も多く、賑わっていた。
馬喰町繊維問屋街 馬喰町繊維問屋街 
江戸通りを北進 江戸通りを北進 
浅草橋交差点 浅草橋交差点 

浅草橋交差点は大きな道路3本が交差する。東西に靖国通り(この交差点から東は千葉道路と改称)が走り、この交差点で江戸通り(国道6号)と清洲橋通りが三角形の頂点を作る。
清洲橋通りの辺が都営地下鉄新宿線、江戸通りの辺が都営地下鉄浅草線、この交差点の南側にある第3の辺がJR総武線快速である。3線の駅は地下で三角形を構成する。
浅草橋南詰 郡代屋敷跡 浅草橋南詰 郡代屋敷跡 

江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。 関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)で焼失し、この地に移りました。
浅草橋から見た神田川上流風景 浅草橋から見た神田川上流風景 
浅草橋から見た神田川下流の柳橋 浅草橋から見た神田川下流の柳橋 

柳橋は粋筋の地として有名だが、神田川が隅田川に注ぐ河口でもあり、目の前には両国橋がある。
浅草橋北詰 旧町名由来案内 旧浅草橋 浅草橋北詰 旧町名由来案内 旧浅草橋 

江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
 ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ぱれたがいつしか「浅草橋」になった。
浅草橋北詰 浅草見附跡 浅草橋北詰 浅草見附跡 
浅草橋 人形問屋街 浅草橋 人形問屋街 

時季によっては5月人形などが飾られているが、何故かネコの陶器人形が飾られていた。
浅草橋 人形問屋街 浅草橋 人形問屋街 
JR 総武線 浅草橋駅 JR 総武線 浅草橋駅 
江戸通りを北進 江戸通りを北進 
銀杏岡八幡神社 銀杏岡八幡神社 

浅草橋駅脇にあり、目立たない神社である。
源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の場所てあった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立らち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神思に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平五年(一〇六二年)当社の始と伝へられています。
銀杏岡八幡神社 銀杏岡八幡神社 
銀杏岡八幡神社 銀杏岡八幡神社 
江戸通りを北進 江戸通りを北進 

斜め左の道は国際通りで、東京メトロ(旧営団)銀座線田原町駅傍を経て、浅草六区脇を通る。
蔵前橋通りとの交差点手前の案内板 蔵前橋通りとの交差点手前の案内板 

右が旧町名由来で、左が天文台跡の碑である。
旧町名由来案内 旧浅草蔵前 旧町名由来案内 旧浅草蔵前 

蔵前という町名が初めて付けられたのは元和七年(一六二一)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府の米蔵があつたことから付けられた。
天文台跡 天文台跡 

この地点から西側、通り一本を隔てた区画には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
蔵前橋通りを渡る。 蔵前橋通りを渡る。 
おもちゃ問屋が並ぶ。 おもちゃ問屋が並ぶ。 
春日通りを越えて北進 春日通りを越えて北進 
泥鰌料理の老舗 駒形どぜう 泥鰌料理の老舗 駒形どぜう 

大学院時代に忘年会で利用したが、臭みはないものの泥鰌のオンパレードには参った。
目的地浅草通りに向かう。 目的地浅草通りに向かう。 
駒形橋 駒形橋 

駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えている。ここは古来、交通の要地で、駒形の渡しのあったところである。
江戸の巷説に有名な、
 君はいま
 駒形あたり
 ほととぎす
の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
駒形橋 駒形橋 
駒形橋 駒形堂 駒形橋 駒形堂 

駒形橋の西詰にある。「浅草寺縁起」によると、創建年代は朱雀天皇の天慶五年(九四二)で、建立者は安房守平公雅。名称由来は諸説ある。
駒形橋 駒形堂 駒形橋 駒形堂 
駒形橋 駒形堂 浅草観音戒殺碑 駒形橋 駒形堂 浅草観音戒殺碑 
駒形橋 駒形堂 浅草観音戒殺碑 駒形橋 駒形堂 浅草観音戒殺碑 

元禄五年(一六九二)浅草寺本尊が垂迩した霊地として、駒形堂の地を中心に南は諏訪町より、北は聖天岸にいたるー〇町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄六年三月浅草寺第四世宣存が願主となり建立したものである。
浅草通り 浅草通り 

正面は浅草松屋で、左の茶色のビルは「デンキブラン」で有名な神谷バーである。「デンキブラン」は土産物としても売られており、安価なので以前買ったが、持て余した。飲兵衛には勧めない。

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浅草寺 四万六千日 ほおずき市