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松山城 隠門続櫓跡広場からの南方風景
風景案内図によれば、手前木立の中に地方裁判所や坂の上の雲ミュージアムがあり、中央やや左に順番に一番町通り(国道11号線)の大街道近くの松山全日空ホテル、松山三越、大街道商店街が見えるはずである。 |
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松山城 隠門続櫓跡広場からの南方風景
右端に愛媛県庁の向かいにある西日本電信電話 愛媛支店の電波塔の頭が見える。案内図によれば塔だけでなくビルの上部も見えるはずだが、そこまでは見えない。 |
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松山城 隠門続櫓広場跡からの南方風景
案内図によれば、大街道周辺の松山全日空ホテルなどが見えるはずだが、木々に覆われて全く見えない。 |
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松山城 筒井門続櫓跡広場 太鼓櫓 |
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松山城 筒井門続櫓跡広場 太鼓門 |
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松山城 筒井門続櫓跡広場 筒井門、隠門
左の隠門は、右の筒井門に比べ一段低くなっている。 |
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松山城 隠門続櫓跡広場
隠門続櫓 隠門続櫓は、隠門2階の渡櫓の東側に接続する平櫓で、長者が平からの登城道を監視する目的で、揚木戸門前の本丸石垣の上に建っています。平面形は、石垣に合わせて東側に突き出た変則的なものとなっており、西側は隠門渡櫓につながっています。
隠門と同様に慶長年間(1596〜1615年)の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されてリいる貴重な建造物です。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により要文化財となりました。 |
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松山城 隠門続櫓跡広場
筒井門西続櫓 同東続櫓 筒井門西続櫓と同東続櫓は、筒井門の両側に設けられた平櫓で、筒井門・隠門とあわせて大手の防備を担っています。
昭和12年に修理工事が行われ、その際、築城時には筒井門櫓と西続櫓が建ててられ、しばらくして東続櫓が建築された可能性が指摘されました。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同24年(1949年)2月に焼失したため、同46年(1971年)3月に復元されました。 |
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松山城 隠門続櫓跡からの東方風景 |
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松山城 太鼓門前 案内
別称「金亀城」の名前の由来
お城は、標高百三十二メートルの山(勝山)の上にあり、勝山城または金亀城とも呼ばれています。
松山城築城の際、山麓の内堀(愛媛県庁西側)の処が、深い淵になっていて、そこに「金色の亀」が棲んでいたといわれています。その伝承にちなんで、別名「金亀城」と呼ばれるようになりました。 |
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松山城 太鼓門前 案内
松山城「築城物語」
松山城は、慶長七(一六〇二)年正月十五日、賤ヶ岳七本槍で有名な加藤嘉明によって起工されました。石材などは正木(松前)城や湯築城などから運ばれたものも多かったようです。嘉明は、足立重信を普請奉行として工事に着手、おたたさん(魚の行商をする女性)が砂を運び、近郷の農民が手ぐり渡しで瓦を運ぶなど、(多くの人々が工事に従事しました。
翌慶長八年十月に、嘉明は正木(松前)から新城下に移り、城下を松山と命名し、城の名前を松山城としました。
城全体の完成は、加藤嘉明が会津四十万石に移封となった、嘉永四(一六二七)年頃といわれています。約二十六年の歳月をかけて築城されたことになります。 |
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松山城 太鼓門
太鼓門 太鼓門は、本丸大手の正門と位置付けられている脇戸付の櫓門で、巽櫓や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く第2の防衛線となっています。
築城時に建てられたと考えられ、明治時代になり石落や窓などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同47年(1972年)2月に門は欅、階上は栂で復元されました。門の両側の石垣には、戦災による剥離が残されています。
なお、戦後、太鼓門南続櫓跡には、朝6畤、正午、夕方6時の時報にあわせて音楽を流すミュージックサイレンが置かれ、市民に親しまれていました。 |
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松山城 太鼓門
巽櫓 同西塀 巽櫓は、本丸の南東(巽方向)に位置する二重櫓で、一重目南面に千鳥破風が付けられています。太鼓門と一体となって防衛線を構築しています。
巽櫓西塀(太鼓門東塀ともいう)は長さ7,82mで、6箇所の狭間備えられています。
いずれも築城時に建てられたと考えられ、昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同61年(1986年)2月に復元されました。 |
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松山城 本丸広場 |
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松山城 本丸広場 井戸 |
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松山城 本丸広場 井戸
この井戸は,築城時に谷だった場所を埋め立てのにあわせて、泉を掘り下げ、石を積み上げて造られたと伝えられています。深さは44.2m、水深は9mあり、戦前までは釣瓶備えられ、冷水を汲み上げて飲むことが許されていました。
上屋は昭和20年(1945年}7月の戦災で焼失したため、同27年(1952年)3月に城内て初めて再建されました。
井戸には、@底がない、A天守と二之丸への抜け穴がある、B大こうもりがいる、C水をきれいにするため大判・小判が投げ込まれている、などの伝承か残されていましたが、いずれも真実でないことかわかっています。 |
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松山城 本丸広場からの西方風景
遠くに瀬戸内海があり、右奥には松山空港があり手前にはJR松山駅がある。 |
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松山城 本丸広場からの西方風景
薄っすらと瀬戸内海が見える。 |
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松山城 本丸広場 馬具櫓 |
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松山城 本丸広場 馬具櫓 |
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松山城 本丸広場 馬具櫓
馬具櫓は、本丸広場の西側にある二重櫓で、太鼓櫓とともに、二之丸方面の監視・防衛を担う櫓です。
この櫓は、明治43年(1910年)に「松山公園」として開園される直前、管理人用 寝泊所として改装されました。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同33年(1958年)3月に本丸の防災ポンプ操作室として鉄筋コンクリー建で再建されました。木造以外の工法で再建された城内唯一の建物で、現在は、本丸の防災を含む管理事務所となっています。
再建には、西側石垣(高さり約13m)に荷重を与えないようにするため、建物直下にケーソン工法の基礎3個が用いられています。この工事中、ケーソン基礎2個の最深部(深さ4.7〜5.9m)で、現在の石垣とは別の石垣が発見されました。これは、まだ知られていない松山城の歴史を示すものかも知れません。 |
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松山城 本丸広場 白梅
本丸広場は梅と桜の両方が植えられており、梅が木にもよるが5分咲きになっている。 |
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松山城 本丸広場 紅梅 |
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松山城 本丸広場 本丸
現在時刻は15時40分で、約25年前に父の古希祝いで訪れた時以来の天守閣見物も考えたが、結構重いキャリーケースを抱えての見物は難しく、断念した。 |
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松山城 本丸広場 本丸 |
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松山城 本丸広場 白梅 |
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松山城 本丸広場 |
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松山城 本丸広場 太鼓櫓 |
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松山城 筒井門続櫓跡広場 隠門
なぜ、と思ったが、中国人のツアーが結構多い。 |
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松山城 長者ヶ平 俳句ポスト
さすがは正岡子規の松山で、投句するためのペン、用紙が用意され、記載の台やポストまで設けられている。 |
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松山城 長者ヶ平駅〜東雲駅までのロープウエイ |
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松山城 長者ヶ平駅〜東雲駅までのロープウエイ |
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松山城 長者ヶ平駅〜東雲駅までのロープウエイ |
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松山城 ロープウエイ東雲駅 よしあきくん
松山城初代城主の加藤嘉明公をモデルとしたマスコット像で、記念写真を撮る人もいる。 |
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ロープウエー街 松山城ロープウエー 東雲口駅舎 |