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呉中央桟橋ターミナル
江田島の小用港から呉中央桟橋ターミナルに戻る。 |
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呉中央桟橋ターミナル
正面のエスカレータで2階に上り、案内に従い大和ミュージアム見物に向かう。 |
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呉 大和ミュージアム エントランス
中央桟橋ターミナルから直接大和ミュージアムに行けると考えていたが、順路に従って歩くと1階外の大和ミュージアムのエントランスに出る。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 常設展入口 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大和ひろば 10分の1 戦艦大和
常設展入口から入ると大和ひろばで、評判の10分の1 戦艦大和が鎮座している。
この模型を見てどう思うか、は人様々であり26.3mもある立派な作品との声も多い。しかし、大和には及ばぬものの、横須賀で色々な護衛艦を見てきて実際に197mのヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」に乗艦、見物した者としては物足りなさを強く感じる。大きいが所詮模型、との印象である。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大和ひろば 10分の1 戦艦大和
10分の1戦艦「大和」
battleship Yamato of a one−tenth scale
戦艦「大和」は戦前の造船技術の結晶として建造され、戦後は復興の礎となりました。
この10分の1戦艦「大和」は、「大和」建造にたずさわったあらゆる人々や乗組員とその家族の思い、そして、平和の尊さを後世に伝えていくシンボルとして建造したものです。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室
明治22(1889)年に呉鎮守府、明治36(1903)年に呉海軍工廠が設置されてから、東洋一の軍港として栄えた呉。史上最大最強の戦艦「大和」の建造計画からその技術、大和の辿った運命、沖縄特攻へ出撃した乗組員の遺書や遺品も展示。戦時下の市民生活や呉空襲の様子、戦後、平和産業港湾都市として復興し、世界的な造船のまちとして現在に至るまでの呉の歴史を、パネルと現存する資料で紹介します。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 戦艦「金剛」に搭載されたヤーロー式ボイラー
戦艦「金剛」は、日本が技術導入のために外国に発注した最後の主力艦で、イギリスのヴィカース、社、において大正2(1913)年8月16日、巡洋戦艦として竣工しました。当時「金剛」には、重油と石炭混焼のヤーロー式ボイラーが36基搭載されていました。ヤーロー式ボイラーは、イギリスのヤーロー社が開発したもので、20世紀初頭の世界の代表的な艦艇用ボイラーでした。
当館展示のボイラーは、昭和3(1928)年12月〜昭和6(1931)年3月の横須賀海軍工廠における近代化改装のおり、戦艦「金剛」より撤去され戦前は東京の海軍技術研究所、戦後は科学技術庁の金属材料研究所の暖房用ボイラーとして平成5(1993)年まで使用されていたものです。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 戦艦「金剛」に搭載されたヤーロー式ボイラー |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 ボイラーの紹介
日本での蒸気機関開発は、明治時代から日本独自の技術開発(宮原式ボイラー)と外国(イギリス及びフランス)製の輸入、技術提携などが積極的に進められ、呉海軍工廠造機部で取り組まれました。その成果として艦本式ボイラー(艦本:海軍艦政本部の略称)が完成します。
艦本式ボイラーは、イ号ボイラー、続いてロ号ボイラーと改良されました、特に艦本式ロ号ボイラーは、大正時代から呉海軍工廠造機部などで製造され、太平洋戦争終戦まで戦艦「長門」および「大和」をはじめ、各種艦艇用のボイラーとして使用されました。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 ボイラーの紹介
ヤーロー式ボイラー
ボイラーは、蒸気を発生させる装置で、上下に設置されたドラムと、その間を連結する多数の水管(パイプ)、バーナーで構成されています。このボイラーは、断面がA字型をしていて、上部に蒸気ドラム、両方の下部に水ドラムがあり、その乗機ドラムと水ドラムは水管(パイプ)で結ばれているところから三胴水管ボイラーと呼ばれます。
蒸気タービン機関
ボイラーで発生させた飽和蒸気は、過熱器を通って高温・高圧の過熱蒸気となり、その過熱蒸気がタービンの翼に当たり、熱エネルギーが回転運動に変換されます。タービンを出た蒸気は、艦外からの海水をパイプ内に通した復水器で真水に戻されます。この真水は、給水ポンプによって再びボイラーへと送られます。
減速歯車装置は、1分間に2,000回転以上もするローターを、推進器(スクリュープロペラ)の回転数に、減速させる装置です。
複数のタービンの出力を1軸にまとめ、適切な回転数と力を得たスクリュープロペラが回転し、艦が動きます。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 大戦景気 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 戦艦「金剛」(縮尺1:100)昭和19年捷号作戦時・最終) |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 戦艦「金剛」(縮尺1:100)昭和19年捷号作戦時・最終)
大口径の大砲や装甲板の製造技術を導入する目的でイギリスへ発注された軍艦です。新造時は巡洋戦艦でしたが、改装され、30ノットが出せる高速戦艦となりました。レイテ沖海戦を終了時に帰投中の昭和19(1944)年11月21日、台湾沖でアメリカ海軍潜水艦の魚雷を受け沈没しました。艦名は、大阪府と奈良県にある金剛山に由来します。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 大和の建造 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 大和の技術 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 大和の技術 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 大和の生涯 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 大和に乗っていた人々 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 大和に乗っていた人々
乗組員たちは沖縄特攻に際し、遺書・手紙・葉書などに家族への思いを託し出撃していきました。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 戦艦「大和」戦死者(沖縄特攻作戦)名簿 |
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呉 大和ミュージアム 1階 「呉の歴史」展示室 戦艦「大和」戦死者(沖縄特攻作戦)名簿
進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた
私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた
敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか
今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ
日本の新生にさきがけて散る まさに本望じやないか
臼淵磐大尉
「戦艦大和の最後」吉田満 臼淵磐大尉の言葉より引用
「大和」副砲射撃指揮官として特攻作戦に参加し、戦死した臼淵磐大尉。大尉のこの言葉は、出撃していった乗組員たちの思いを伝えてくれます。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大和ひろば 10分の1 戦艦大和
大和の艦橋付近であるが、写真ではそれなりの絵になっているが、いかんせん迫力にかける。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大和ひろば 10分の1 戦艦大和
大和の艦底部分を見物することもできる。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大和ひろばから見た呉港
日本郵船グループのNYKのコンテナー船が停泊している。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大和ひろば 10分の1 戦艦大和 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室
零式艦上戦闘機六二型、特攻兵器「回天」十型(試作型)などの実物資料で戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えます。
呉で培われた材料をつなぐ技術や目標へまっすぐ進む技術などは、現在の宇宙ロケット製造技術にも引き継がれています。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 93式魚雷尾部(左)、二式魚雷(右)
九三式魚雷は、それまでの魚雷の欠点であった射程距離の不足、航跡発生の問題を解決するため、燃料酸化剤に純粋な酸素を用いていました。この酸素魚雷を太平洋戦争までに実用化できたのは日本だけでした。
開発に成功したのは呉海軍工廠魚雷実験部で、水雷部がおもに製造を担当していました。
二式魚雷は、魚雷艇用として開発された魚雷で、魚雷艇以外にも「蚊龍」などの特殊潜航艇で使用されました。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 特殊潜航艇 「海龍」後期量産型
「海龍」は飛行機のように翼を使って自由に潜航・浮上する事を目指して呉海軍工廠などで潜航実験や研究・開発が行われた小型潜水艦です。
全長:17.28メートル、水中速力9.8ノット、乗員2名 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 特殊潜航艇 「海龍」後期量産型 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 特殊潜航艇 「海龍」後期量産型
「海龍」は世界初の有翼潜水艇です。水中を飛行機のように自由に潜航・浮上することをめざして開発されたもので、操縦装置も飛行機と同じものを使用していました。
呉海軍工廠などでは潜航実験や研究・開発が行われ、横須賀海軍工廠と海軍工作学校を中心に建造されました。後期量産型では艇首に600キログラムの炸薬を装備し、両脇に抱えた魚雷発射後、目標の艦艇に突入する「水中特攻兵器」となっていました。
当館展示の「海龍」は、昭和20(1945)年、静岡県網代湾で艇尾部にアメリカ海軍航空機のロケット弾(不発弾)の直撃を受けて沈没し、昭和53(1978)年5月27日に引き揚げられたものです。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 零式艦上戦闘機六二型
零式艦上戦闘機の開発には、広海軍工廠で研究・開発された技術が活かされました。機体全てを金属で製作する技術、運動性重視から主翼を片方だけで支える強度維持の技術、桁と外板で主翼の強度を保持する技術などは、日本国内では広海軍工廠からはじまりました。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 零式艦上戦闘機六二型
零戦と呉海軍航空隊
呉地区防空のために昭和6(1931)年5月30日に佐世保海軍航空隊広分遣隊が独立、「呉海軍航空隊」が開設されました。
その後、昭和19(1944)年8月1日に、戦闘機部隊の独立及び部隊名称の番号化によって「第332海軍航空隊」となり、零式艦上戦闘機などを配備していました。この第332海軍航空隊は、度重なる空襲のおり、西日本の防空のため多くの犠牲を出しながらも幾度となく出撃を繰り返しました。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 零式艦上戦闘機六二型
零戦と広海軍工廠
広海軍工廠航空機部は、昭和10(1935)年頃まで海軍航空機の研究、設計、その試作と制式機種の製造、修理を行う中心でした。零式艦上戦闘機にも広海軍工廠において開発された技術が活かされて設計されました。
機体全てを金属で製作する技術(全金属製機体構造),運動性重視から主翼を片方だけで支える強度維持の技術(片持翼構造)、桁と外鈑で主翼の強度を保持する技術(張力場式桁構造)などは日本の国内では広海軍工廠からはじまったものです。その技術は現在の航空機にも活かされています。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 零式艦上戦闘機六二型
零式艦上戦闘機 六二型 中島82729号
昭和15(1940)年に海軍の制式機として採用された「零式艦上戦闘機」は、その機動性、装備、航続距離において当時世界に類を見ないもので、太平洋戦争などで活躍しました。
しかし、戦域の拡大と連合国側の新戦法による攻撃、新型戦闘機の登場などで次第に消耗も激しくなり、昭和19(1944)年10月からの「神風特別攻撃隊」編成以降、爆弾とともに飛行機ごと体当たりする攻撃法によって若く尊い生命が数多く失われました。
当館展示の機体は、明治基地(現・愛知県安城市)第210海軍航空隊の所属機でした。昭和20(1945)年8月6日夕刻、吾妻常雄海軍中尉(当時)が操縦飛行中、エンジントラブルに寄り琵琶湖に不時着水し、昭和53(1978)年に引き揚げられたものです。
今回の機体修理は、吾妻氏ご本人の協力を得て行われました。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 特攻兵器「回天」 十型試作型
「回天」は、人間が魚雷を操縦しながら、目標とする艦艇に体当たりする特攻兵器で、「人間魚雷」とも呼ばれます。
一型・二型・四型・十型などのタイプがあり、実戦投入されたのは、「九三式酸素魚雷」を用いた一型のみで、約420基が製造されました。
戦没者は搭乗員だけでも100名以上にのぼり、その多く
が20歳前後でした。
当館展示の「回天」十型は、潜水艦用の電気推進魚雷で
ある「九二式魚雷」を利用し、本土決戦の近距離用として
開発されたものです。
※本展示資料のうち、入手時すでに欠損していたスクリュープロペラ、気蓄器、整流板などの部分は、資料に基づき形状を復元しています。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 特攻兵器「回天」 十型試作型
呉海軍工廠を中心に研究開発された特攻兵器「回天」は、海軍の青年士官から提案されたものです。平均年齢21歳の100名以上の尊い命が失われました。
全長9メートル、重量2.5トン、乗員1名 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 各種砲弾
戦艦「大和」などで使用された46センチ主砲弾や、戦艦「陸奥」などで使用された41センチ主砲弾をはじめとした各種砲弾や火薬缶などを展示しています。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 各種砲弾
一等巡洋艦「青葉」 20センチ主砲身
3番主砲塔右砲として搭載されていた8インチ(20.3センチ)主砲身の中後部です。
昭和17(1942)年10月11日のサポ島沖海戦で「青葉」は被弾中破。このときに砲尾部の尾栓も損傷しました。呉海軍工廠での修理の際に外された砲身は、昭和17(1942)年末から呉工廠総務部利材工場に保管されていました。
昭和20(1945)年6月、特殊讐備艦に指定された「青葉」は、呉港外警固屋沖に繋留、7月28日の空襲により大破着底し、そのまま呉で終戦を迎えました。 |
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呉 大和ミュージアム 1階 大型資料展示室 各種砲弾
呉海軍工廠の砲熕・火工技術
砲熕技術
大砲や機銃などの砲熕技術は、製鋼工場を有する呉海軍工廠砲熕部を拠点として研究、開発が行われていました。特に、戦艦や巡洋艦に搭載された大口径砲の研究・開発から製造までを一貫して行うことができたのは呉海軍工廠だけでした。
火工技術
呉海軍工廠火工部では、艦艇用砲弾などの火薬・信管(起爆装置)・火管(発射薬点火装置)の製造、炸薬の装填、発射薬の包装などが行われていました。特に呉海軍工廠においては、戦艦「大和」型46センチ主砲弾に代表される大口径砲砲弾の火工技術について、研究・開発から製造までを一貫して行っていました。 |