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平和記念公園 原爆の子の像〜原爆ドーム〜原爆ドーム駅

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平和記念公園 平和祈念像 平和記念公園 平和祈念像 
平和記念公園 平和祈念像 平和記念公園 平和祈念像 

平和祈念像

平和祈念像は、全国の学童の募金や広島商工会議所などの協力によって建設されたもので、1.8メートルの台座に、1.4メートルの母子像が立っています。台座は募金によりましたが、像は円鍔勝三氏の寄贈によります。ちようど原爆死没者慰霊碑を見守る格好で、若い母親に抱かれた子どもが、平和のラッパを吹いて、その前に三日月がかかっています。昭和52年8月2日、除幕式を行いました。制作者の円鍔氏は除幕に際して「親から子どもへ、きのうよりもあすへ。三日月もやがて満月になる。新しい未来を求めて、平和のラッパを鳴らしたい」との意図を語りました。この像の横に詩人草野心平氏の「平和祈念像に寄せて」(1978年(昭和53年)8月)の詩碑が建てられています。
平和記念公園 平和祈念像 平和記念公園 平和祈念像 

この碑の左、緑青が吹いている銘板が草野心平の詩碑である。
平和記念公園 平和の灯 平和記念公園 平和の灯 

建立年月日
1964(昭和39)年8月1日
建立者
平和の灯建設委員会
設計者
丹下健三(当時・東大教授)
形状
台座は、手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現している。(高さ3m、幅13m、奥行き8m)
建立の目的
水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため。
平和記念公園 元安川に架かる元安橋 平和記念公園 元安川に架かる元安橋 
平和記念公園 原爆の子の像 平和記念公園 原爆の子の像 

原爆の子の像
  建立者:広島平和をきずく児童・生徒の会
  制作者:東京芸術大学教授 菊池一雄氏

 この像は、2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが、10年後に白血病で亡くなったことをきっかけに。同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と呼びかけ、全国の3,200余リの学校や世界9か国からの寄付などにより、1958年5月5日に完成したものです。
 像の高さは9メートルで、その頂上には折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。側面には少年と少女の二体の像が配されています。
 像の下に置かれた石碑には、「これはぼくら叫びです。これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。内部につるされた鐘には、ノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られています。この鐘と金色の鶴は、2003年に複製されたものです。

広島市
平和記念公園 原爆の子の像 平和記念公園 原爆の子の像 
平和記念公園 原爆の子の像 平和記念公園 原爆の子の像 
平和記念公園 原爆の子の像 平和記念公園 原爆の子の像 

折鶴がびっしりと詰められている。
平和記念公園 元安川の向かいに見える原爆ドーム 平和記念公園 元安川の向かいに見える原爆ドーム 
平和記念公園 元安川の向かいに見える原爆ドーム 平和記念公園 元安川の向かいに見える原爆ドーム 
平和記念公園 元安川の向かいに見える原爆ドーム 平和記念公園 元安川の向かいに見える原爆ドーム 

広島県産業奨励館(「原爆ドーム」:爆心地から約160メートル)

この建物は、チェコの建築家ヤン・レツルの設計監督により1915(大正4)年4月に完成し、特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。原孑爆弾はこの建物の南東約160メートルの上空約600メートルでさく裂したため、建物は大破・全焼して館内にいた全員が即死しました。
 その後、原爆の惨禍を全世界に伝えるとともに、世界平和へのシンボルとして1996(平成8)年12月、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。
平和記念公園 元安川の向かいに見える原爆ドーム 平和記念公園 元安川の向かいに見える原爆ドーム 
平和記念公園 平和の時計塔 平和記念公園 平和の時計塔 

核原子力の出現により、人類はいま生か、死か、破滅か、繁栄かの岐路に立っている。
 ひろい世界を同じ心でーつに結ぶ、全世界のライオンズ会員が平和実現のために果たす役割りは大きい。
 原爆ドームの永久保存に呼応し、人類が初の原爆の洗礼を受けた時刻、8時15分に、毎日全世界に向けこの時計塔のチャイムが「ノーモアヒロシマ」を強く訴え、人類の恒久平和実現の一日も早からんことを祈り、この時計塔を建設し、市に贈るものである。
平和記念公園 平和の時計塔 平和記念公園 平和の時計塔 
平和記念公園 太田川沿いの遊歩道を北上 平和記念公園 太田川沿いの遊歩道を北上 
平和記念公園 太田川沿いの遊歩道を左折、相生橋へ 平和記念公園 太田川沿いの遊歩道を左折、相生橋へ 

相生橋で太田川は分岐し、西側は太田川、東側は元安川となり、平和記念公園は公園を北端とする中の島となる。
元安川沿いの遊歩道を南下 元安川沿いの遊歩道を南下 

相生橋

 旧相生橋は、昭和7年に架設された全国でも珍しいT字形をした橋です。昭和20年8月の原子爆弾投下の目標となったともいわれています。この原子爆弾の爆発により、相生橋は、強い爆風を」受け、その爆圧は、通常橋にかかる荷重の15に当る一平方米当り7屯と推定されています。このような瞬間的に強い爆圧を受けた相生橋は、板バネのように大きく曲り、又跳ね返るような動きを繰り返し、同時にコンクリート床板は、宙に浮き上がりました。幸い落橋を免れましたので修理して被爆後、約35年間使用されてきましたが、老朽化のため昭和58年10月に現在の橋に架け替えられました。
 新しい橋の親柱の橋名は、前衆議院議長灘尾弘吉先生の揮毫によるものです。
元安川沿いの遊歩道を南下 赤い鳥文学碑(鈴木三重吉文学碑)  元安川沿いの遊歩道を南下 赤い鳥文学碑(鈴木三重吉文学碑) 
元安川沿いの遊歩道を南下 赤い鳥文学碑(鈴木三重吉文学碑)  元安川沿いの遊歩道を南下 赤い鳥文学碑(鈴木三重吉文学碑) 

「千鳥」「桑の実」などの名作によってて明治大正期の文壇に生彩を放った鈴木三重吉(1882〜1936)は、明治15年この地に生まれました。大正7年少年少女の雑誌「赤い鳥」を創刊し、日本最初の童謡童話が誕生しました。つづり方や自由詩を指導して児童の創造を高め、外国の名作童話も紹介し、わが国の児童文学の父とよばれています。この碑は昭和39年6月、被爆地ヒロシマの文化の復興のシンボルとして建てられ、平和への願いが込められています。圓鍔勝三の作品。碑には「私は永久に夢を持つ。たゞ年少時のごとく。ために悩むこと浅きのみ。三重吉」と刻まれています。
元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 
元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 内務省(建設省)職員殉職之地碑 元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 内務省(建設省)職員殉職之地碑 
元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 内務省(建設省)職員殉職之地碑 元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 内務省(建設省)職員殉職之地碑 
元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 
元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 
元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 熱中症計はほぼ安全 元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 熱中症計はほぼ安全 

現在時刻は9:45で、温度2.5℃、湿度は20%で、熱中症計はほぼ安全である。

天気は良いが、小雪がちらつくので寒いとは思ったが、まさか2.5℃とは思わなかった。
元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 
元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 元安川沿いの遊歩道を南下 原爆ドーム 

原爆ドーム一周して北上、広島城に向かう。
相生通り 広電 原爆ドーム駅 相生通り 広電 原爆ドーム駅 

原爆ドーム駅で相生通りを渡り、北上する。



 
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