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広島城 二の丸 平櫓
広島城南交差点の地下道を出て西に戻ると。広島城二の丸が見え、堀沿いに北に歩くと表御門がある。 |
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広島城 表御門 史跡広島城跡案内図
左が北で、右横の出島の部分は二の丸で、現在地の表御門は右下角である。 |
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広島城 表御門前 案内
史跡 広島城跡
史跡指定地 本丸跡、二の丸跡、堀およびその周辺
別 名 鯉城
形 状 太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城
沿 革 1589年(天正17年)毛利輝元 築城に着工
1591年(天正19年)毛利輝元 入城
1600年(慶長 5年)福島正則 入城
1619年(元和 5年)浅野長晟 入城
1871年(明治 4年)廃藩置県により本丸内に広島県の役所が置かれる。
1894年(明治27年)日清戦争時本丸内に大本営が設けられる。
1945年(昭和20年)原爆により天守閣、太鼓櫓、表御門などすべて崩壊。
1958年(昭和33年)現在の天守閣再建。 |
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広島城 表御門前 案内
史跡広島城跡二の丸表御門(復元)
規模 桁行7.64m、梁間4.85m、軒の出1.27m、軒高7.03m、棟高10.61m
構造 木造脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺、軸部真壁、軒塗籠、両側面一間庇付
表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被曝による焼失までの約350年間存続していました。
現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。
この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、焼失後も残存しだ表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。 |
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広島城 御門橋を進み表御門へ |
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広島城 二の丸広場 |
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広島城 二の丸広場
史跡 広島城跡 二の丸跡
この石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出しの機能を持つ郭で、全国の近世城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされています。
この郭は、毛利時代(十六世紀末)に築造されたもので、外側から内部が見えにくく、本丸からは内部が見える構造としており、防御機能を考慮したことがうかがえます。
郭内には、表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていましたが、原爆により倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城四百年を契機に、江戸時代の姿に復元整備したものです。 |
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広島城 二の丸広場から本丸下段へ |
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広島城 二の丸広場から本丸下段へ |
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広島城 二の丸広場から本丸下段へ
堀には鯉が泳いでいる。 |
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広島城 本丸下段 中御門跡 |
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広島城 本丸下段 史跡広島城跡案内図 |
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広島城 本丸上段 大本営跡 広場 |
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広島城 本丸上段 大本営跡 広場 |
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広島城 本丸上段 大本営跡 広場
史跡 広島城跡
指定 昭和二十八年三月三十一日
史跡指定地 本丸跡、二の丸跡、堀およびその周辺 別 名 鯉城・在間城
形 状 太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城
沿 革 一五八九年(天正十七年)毛利輝元 築城に工事に着手
一五九一年(天正十九年)毛利輝元 入城
一六〇〇年(慶長 五年)福島正則芸備四十九万石余を領し、翌年三月入城
一六一九年(元和 五年)浅野長晟芸備四十二万石余を領し、八月入城
一八七一年(明治 四年)廃藩置県により本丸内に広島県の役所を置く
一八九四年(明治二十七年)日清戦争時本丸内に大本営を置く
一九四五年(昭和二十年)原爆により天守閣・太鼓櫓・表御門などすべて崩壊
一九五八年(昭和三十三年)現在の天守閣再建 |
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広島城 本丸上段 天守閣 |
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広島城 本丸上段 天守閣
約45年前に結婚前の妻と来て天守閣に上った。しかし、今回は松山城と同じで結構重いキャリーケースを持っており、天守閣に上ることは断念した。 |
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広島城 本丸上段 天守閣前から見た堀風景 |