|
江戸通りを南下 |
|
江戸通りを南下 浅草むぎとろ本店
時刻は11:10であるが、長い列が出来ており、外人観光客も並んでいる。ガラス越しに見える店内は満席で、さすがは老舗有名店である。 |
|
江戸通り 駒形橋西詰交差点 駒形堂 |
|
江戸通り 駒形橋西詰交差点 駒形堂 |
|
江戸通り 駒形橋西詰交差点 駒形堂
駒形堂
『浅草寺縁起』によると、創建年代は朱雀天皇の天慶五年(九四二)で、建立者は安房守平公雅。名称由来には、
@隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(『江戸名所図会』)
A観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」
と呼んだのが訛る。(『燕石雑誌』)
B駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。
(「大日本地名辞典』)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。
葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。小さくとも、江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。 |
|
江戸通り 駒形橋西詰交差点 駒形堂 |
|
江戸通り 駒形橋西詰交差点 駒形堂 浅草観音戒殺碑
駒形堂は浅草寺の伽藍一つで、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川から発見された霊地である。このため元禄五年(一六九二)、当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。これを記念して、翌年(元禄六年)浅草寺第四世権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。殺生禁断の範囲は駒形堂を中心に、南は諏訪町より北は聖天岸に至る十町余の川筋だった。「御府内備考」によると、諏訪町・聖天町にも高札が建てられたという。 戒殺碑が建てられた駒形堂の堂宇は、江戸時代に何度か焼失している。戒殺碑も倒壊し、宝暦四年(一七五九)に堂宇とともに再建された。現在の碑は関東大震災後の昭和二年(一九二七)に土中より発見され、同八年の駒形堂再建と同時に修補されたものである。元禄当初の碑か、宝暦再建のものか定かでない。
碑身は石造(安山岩)で、長方形円頭板状。正面及び両側面を研磨し、背面は野面のままである。台石は昭和八年修補時のもので、上面・正面・西側面・背面の五面を研磨してある。総高一八三・五cm、正面幅六一cm。銘文は「浅草寺誌」や「江戸名所図会」にも収載される。元禄期当時の信仰及びその周辺の状況を明らかにする貴重な資料である。 |
|
江戸通り 駒形橋西詰交差点 駒形堂 浅草観音戒殺碑 |
|
江戸通り 駒形橋西詰交差点 駒形堂 ご本尊ご示現の聖地 駒形堂
駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向かった。
このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。
今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
馬頭観音さまのご真言・・「おん あみりとどはばうんはった」
金龍山 浅草寺 |
|
江戸通り 駒形橋西詰交差点で左折、浅草通りへ |
|
江戸通り 駒形橋西詰交差点で左折、浅草通りへ
浅草観音戒殺碑と書かれた石柱が建てられている。 |
|
浅草通り 隅田川に架かる駒形橋を東進 |
|
浅草通り 隅田川に架かる駒形橋を東進
吾妻橋東詰めのアサヒビールタワーの右に東京スカイツリーが見える。 |
|
浅草通り 隅田川に架かる駒形橋を東進 |
|
浅草通り 駒形橋東詰交差点で右折、清澄通りへ |
|
浅草通り 駒形橋東詰交差点で右折、清澄通りへ
駒形橋東詰交差点は5差路で、同じような大きさの道路が交差するのでどれが清澄通りか分かりにくい。しかも駒形橋を渡ると道が4本に別れ、隅田川沿いに南北に2本、東側に東北、東南に道がある。地図では東南に進む道のように思えるが、隅田川から離れるように思え、悩んだ。 |
|
浅草通り 駒形橋東詰交差点で右折、清澄通りへ
交差点を眺めていたら清澄通りの標識を見つけた。隅田川沿いの南行する道路である。 |
|
浅草通り 駒形橋東詰交差点で右折、清澄通りへ |
|
清澄通りを南下 本所一丁目交差点で春日通りを渡る |
|
清澄通りを南下 本所一丁目交差点で春日通りを渡る |
|
清澄通りを南下 本所一丁目交差点で春日通りを渡る
交差点の右に厩橋が見える。 |
|
清澄通りを南下 石原一丁目交差点で蔵前橋通りを渡る |
|
清澄通りを南下 石原一丁目交差点で蔵前橋通りを渡る |