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金杉通り 床屋角で右折
床屋を見つけたが、船橋からの団体が狭い道幅いっぱいに次々と現れ、入ることが出来ない。ちなみにこの船橋の団体は数班に分かれて見物をしており、法昌寺を出る時に次の班が到着、入れ替わりも一騒動だった。 |
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住宅街を道なりに歩く |
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法昌寺(毘沙門天) |
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法昌寺(毘沙門天) |
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法昌寺(毘沙門天) |
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法昌寺(毘沙門天) |
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法昌寺(毘沙門天) 毘沙門天
本堂は門の左にある。
毘沙門天(法昌寺)
勇気授福の神
その昔、日遲聖人が現世安穏を祈願して開眼された毘沙門天のお堂のかたわらには、コメディアンたこ八郎改め、たこ地蔵が皆様の無病息災を祈願して合掌しております。
人生に勝て! 毘沙門天は必勝開運の軍神です。 大慈大悲の下谷観音堂で懺悔滅罪を祈願しましよう。 |
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法昌寺(毘沙門天) 立正安国論を説く日蓮上人
この像を見ていた年配者が「りつせいあんくに」と読んでいた。日蓮上人も嘆き、苦笑したことと思う。 |
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法昌寺(毘沙門天) 本堂前 たこ地蔵
「めいわくかけて ありがとう。 たこ八郎」と相当な金釘流で座右の銘が地蔵の前の部分に刻まれている。
たこ八郎はコメディアンであるが、ボクサー時代の後遺症でパンチドランカーであり、謎の溺死をしたことでも有名である。 |
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法昌寺(毘沙 門の先に小野照崎神社が見える |
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小野照崎神社前で右折、東進
小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁である。
小野篁は昼は朝廷の役人として、夜は閻魔大王の官僚として活躍した地獄巡りの伝説で有名である。神社内にはそのような話に関わるものはなく、下谷坂本の富士塚がある。 |
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法昌寺(毘沙門天)に向かう船橋の団体とすれ違う
金杉通りの床屋角であった船橋の団体の別の班が続々と法昌寺(毘沙門天)に向かうので歩くのも大変である。 |
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交差点を渡り左折、昭和通りを北上
交差点を渡ると金美館通りとなって東進、鷲神社の南にある千束一丁目交差点で国際通りと交差する。 |
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交差点を渡り左折、昭和通りを北上
交差点を渡ると入谷金美館通り商店会の街灯が並ぶ。 |
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昭和通り 次の信号交差点で右折
昭和通りを渡った無名の交差点の次の無名の交差点で右折する。次の交差点は名前が付いており、下谷三丁目交差点で歩道橋が設置されている。
下谷七福神巡りの期間だけかもしれないが、交差点を渡った所に朝日弁財天行きの道標が掲示されている。 |
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朝日弁財天行きの道標に従い左折、北上 |
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朝日弁財天(弁財院) 西側入口 |
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朝日弁財天(弁財院)) 石碑 由緒記
辨財天の信仰篤かった備中松山城主水谷伊勢守勝隆は東叡山寛永寺を創建した天海の勧奨もあって寛永初年不忍池に辨財天社を建立すると同時にその下屋敷であった当水の谷の邸内の池にも辨財天祠を祀りいわゆる姉妹辨天とし西方の不忍を夕日東方の水の谷を朝日辨財天と称した この下屋敷は面積約二万坪であったがその後勝隆の子孫旗本水谷主水の下屋敷となり次いで北海道の田村富三郎の所有と変り更に新潟県豪農市島徳次郎の所有に転じ大東亜戦争後の大改革に遭遇し昭和二十二年当主市島徳厚は辨財天を永久祭祀の条件でこの地を借地人に分譲すると共に境内二百十七坪余をこれら関係者に寄付した 人々市島家の厚情に痛く感激し直ちに奉賛会を設立し昭和二十八年宗教法人法の施行と共に曹洞宗辨天院と改称し本尊釈迦牟尼佛をも安置した 本堂は大正十二年関東大震災に罹災したので昭和四年市島家に於て再建したが同二十年大東亜戦争のため烏有に帰した 然る所同二十三年奉賛会が中心となりこれを復興し同三十六年庫裏も落慶今亦壮麗な玉垣を完成し輪奐の美を添えた 往昔は琵琶形に造られた中島に常に松柏の大樹が鬱蒼と茂り二千四百坪の池には蒼々とした底深い水を湛え菱や?菜蓮など美しく浮び池畔には有名な料亭松源や廓の寮を始め瀟洒な別荘が点在し文人墨客の往来も激しかった 然るに関東大震災直後東京市の要請もありこの池を焼土の処分場に提供尓来二年有半宅地と化し昔日の面影を没するに至った 思うに町会の興隆は人心の融和に因る団結が基本であるがそのためにはこの辨財天を我らの守護神として日々崇敬し永く子々孫々に至るまで義理を重んする下町人情に徹し町会の発展社会の福祉国家の繁栄に寄与するよう祈念するものである |
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朝日弁財天(弁財院)) 朝日弁財尊天の由緒
摩耗が激しく読み難い。 |
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朝日弁財天(弁財院))
弁財天(弁天院)
芸道富有の神
当山の開基は備中松山城主水谷伊勢守勝隆で寛永初年(1624年)不忍池に弁財天を建立すると同時にその下屋敷であった水の谷の邸内の池にも弁財天をまつり朝日弁財天と称した。
弁財天は芸道富有結縁を授ける神として知られる。
尚、境内に聖観世音菩薩像建立さる。(平成元年)みなさまに親しまれています。
石碑の由来記に「朝日」と名付けられた由来が書かれている。 |
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朝日弁財天(弁財院)) 弁天池 |
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朝日弁財天(弁財院)) 弁天池
弁天池の記
昔の弁天池は約八千平方米の広さを持ち常に蒼々とした底深い水を湛え琵琶形に造られた約百六十平方米の中の島との間に長い木橋が架けられて風情を添え島には松柏の大樹がうっ蒼と茂る中に由緒深い本堂を仰ぎ見る景観は誠に荘厳を極めていた
然るに大正十二年関東大震災の直後当局はこの池を始め隣接数区の焼土により埋めたてられ細やかながらその名残を留めているのが現在の池である
文豪久保田万太郎はこの池の変貌を惜しみ「水の谷の池埋められつ空に凧」と詠んでいる誠に今昔の感に堪えない所である |
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朝日弁財天(弁財院)) 参道 |
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朝日弁財天(弁財院)) 参道入口
参道を出て左折、住宅街を北上する。 |