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神田明神(裏参道〜御神殿〜表参道)

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湯島天神、亀戸天神の満開の梅を楽しむH270227(梅が咲く神田明神H270227)

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蔵前橋通り 神田明神 裏参道(旧女坂) 蔵前橋通り 神田明神 裏参道(旧女坂) 

女坂とはいえ結構急である。
神田明神 裏参道(旧女坂)を上った所にある三之宮奉安殿 神田明神 裏参道(旧女坂)を上った所にある三之宮奉安殿 
神田明神 裏参道(旧女坂)を上った所にある藤棚 神田明神 裏参道(旧女坂)を上った所にある藤棚 
神田明神 阿部?人(しょうじん)の句碑 神田明神 阿部?人(しょうじん)の句碑  

碑の表面に?人の俳句「山茶花の散るや己の影の中」が刻まれている。しょう人(1900〜1968)は、俳句雑誌『好日』を主宰し俳句論をおこなった人物。その著『俳句―四合目からの出発』は、俳句の入門書として多くの俳句愛好者に読まれている。昭和47年11月12日、好日俳句会により建立。
神田明神 国学発祥之地 神田明神 国学発祥之地 

 荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仏道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に亘れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽瘁し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のた
めに計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は加茂真渕 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺跡に記して後学の為に伝ふ
神田明神 銭形平次碑、八五郎碑 神田明神 銭形平次碑、八五郎碑 

左に銭形平次碑があり、その右奥に小さな子分の八五郎碑がある。

銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
平次の住居は、明神下の台所町ということになっている。
この碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁の明神下を見下ろす地に建立された。
石造り寛永通宝の銭形の中央には、平次の碑、その右側には八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。
神田明神 銭形平次碑 神田明神 銭形平次碑 
神田明神 銭形平次碑 発起人の碑 神田明神 銭形平次碑 発起人の碑 

銭形平次碑の設立発起人の碑である。銭形平次を演じたことで有名な長谷川一夫や大川橋蔵の名前もある。
神田明神 御神殿 神田明神 御神殿 
神田明神 御神殿 神田明神 御神殿 

神田明神は天平2年(730年)、現在の千代田区大手町将門塚周辺に創建。それから約200年後、平将門の首を奪い返して塚を築き、葬った。さらに、延慶2年(1309年)には将門公の霊をも相殿に祀り、神田明神と名付けた。元和2年(1616年)現在の場所に移り、江戸城の鬼門の守護神となり江戸総鎮守として現在に至る。
神田明神 随神門 神田明神 随神門 
神田明神 随神門 神田明神 随神門 
神田明神 大鳥居から国道17号へ 神田明神 大鳥居から国道17号へ 
神田明神 大鳥居横 名物 明神甘酒の天野屋 神田明神 大鳥居横 名物 明神甘酒の天野屋 

地下に麹を作る土室があり、テレビなどで紹介されている。



 
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