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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 関門プラザ
関門プラザは関門トンネル資料館で、関門トンネル (国道2号)の人道入口でもある。
関門海峡を渡る3ルートのうち、関門トンネル (山陽本線)は昭和17年に単線が、19年に複線が開通した。関門トンネル (国道2号)は昭和33年に開通したが、山陽本線の同名のトンネルと区別するために関門国道トンネルと呼ばれることもある。
関門橋は関門海峡の最狭部である下関市壇之浦と北九州市門司区門司(和布刈地区)を結ぶ海上橋で、昭和48年に開通した。 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 関門橋
当初予定では赤間神宮から約1kmの関門橋まで歩く予定だったが、前日の博多程ではないが、蒸し暑くて熱中症になりかけていた。そのため、バスで移動することにした。また関門トンネルの人道歩行も断念し、バスで下関駅に戻った。 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 関門橋 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦古戦場跡
安徳帝御入水之処
二位尼辞世
今ぞ知る
みもすそ川の
御ながれ
波の下にも
みやこありとは
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦古戦場跡
碇を持った平知盛と、八艘飛びの源義経。 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦古戦場跡 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦古戦場跡 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦古戦場跡
日本史の節目を刻む関門海峡
西へ東へと一日に四回、流れの向きをかえる関門海峡。その狭い所では、両岸の幅は七〇〇メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約一〇ノット(時速一八キロ)にもなります。また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。
寿永四年(一一八五)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇の浦を舞台に合戦しました。当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。なお、この戦いにおいて義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘跳び」を見せたといわれています。 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 馬関開港百年記念
文字が拓本のせいか黒く滲んでおり、判読不可能である。Webで調べても同じ感想だらけで、やっと一つだけ読めた、との記事があった。碑面に直接墨を塗りつけるマナー違反の拓本の可能性が高い。
1863年6月25日(文久3・5・10)以来、長州藩は、この沿岸一帯に砲台を築き、海峡を通る外国艦船にしばしば砲撃を加えた。
これにより、翌年9月5日(元治元・8・5)17隻の艦船からなるイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊は前田・壇之浦をはじめ下関一帯を砲撃した。
戦いは8日にいたって終り、14日 「止戦講和」 が成立 海峡通行の安全、馬関港出入の自由が約束された。
これは下関が海外に向って港を開くに至る第一歩であった。
流れ来たり、流れ去る早靹の急潮とともに、一世紀の、時が流れた。
今ここに当時を回想し、新たな思い出をもってこのゆかりの地に碑を建て永に記念する
昭和39年9月8日 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 天保製長州砲
幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は元治元年(1864)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4力国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られ国内和から姿を消していた。
1966年春、渡欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリッド軍事博物館に保管されている攘夷戦・長州砲を発見、以来返還運動が進められたが実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見るに至った。この機会に下関東ロータリークラブでば、フランス政府の了解を得、創立20周年記念事業として、これを現寸大かつ精密に摸造し下関市に寄贈した。
同長州砲は天保15年(1844)萩藩の鋳砲家郡司喜平次信安の手になるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。
鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとするのは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかならない。 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 天保製長州砲 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦砲台跡 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦砲台跡から見た関門橋 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦砲台跡から見た関門橋 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦砲台跡
長州砲(八十斤加農砲)
文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)。翌年8月、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する原動力となりました。
長州藩の主力となった加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球形の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて損害を与えるものでしたが、連合艦隊の新しい大砲は距離・威力ともはるかにすぐれたものでした。
この大砲は、幕末に数多くの大砲を鋳造していた長州藩の安尾家に伝わる20分の1の模型(下関市立長府博物館蔵)を参考に、原寸大に復元したレプリカ(FRP製)です。砲身に刻まれた文字は、パリのアンヴァリッド軍事博物館が所蔵している、これとほぼ同型の長州製青銅砲の砲身を模刻しています。 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦砲台跡 |
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国道9号 関門海峡 壇ノ浦 みもすそ川公園 壇ノ浦砲台跡から見た関門橋 |