|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室
2階の展示コーナー左に常設展示室が設けられている。室内は薄暗く、入ってすぐに金印が展示されている。
他の多くの博物館同様、フラッシュを焚かなければ撮影可能である。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 志賀島金印(漢委奴国王)
第一印象はなんと小さい、続けてなんときれいな金印だ、である。
公式ホームページによれば一辺が2.3センチ、重さ108グラムである。小指の先に、とは言わないが、発見時に石の箱の中にあった、と言われており、単体だったら見落とすほどの小ささである。
実物を見る前のイメージは日本国の国璽や御璽で、三寸四方、重さ約4キロの角印で金印である。一辺9センチなので志賀島金印(漢委奴国王)の約4倍、重さにして40倍となる。もっとも御璽の場合、重いので担当者2名が押印するとのことである。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 志賀島金印(漢委奴国王)
撮影可なので一周してそれぞれの角度から撮影した。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 志賀島金印(漢委奴国王) |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 志賀島金印(漢委奴国王) |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 歴史書に記された『金印』
『三国志』魏書東夷伝
東南陸行五百里で、伊都国に至る。官を爾支、副官を泄謨觚、柄渠觚という。千余戸ある。
代々王がいて、皆女王国に統属した。帯方郡の使者が往来するとき、常に駐在するところである。東南奴国に至るのにいあ足るのに百里。長官を?馬觚、副官を卑奴母離という。二万余戸がある。
『後漢書』東夷伝
西暦57年、倭奴国が貢物をもって挨拶にきた。使者は自らを大夫と称した。倭奴国は倭国の最南端にある。光武帝は印と綬を授けた。
『漢書』地理志
楽浪郡の海のかなたに倭人がいる。百余りの国に分かれ、定朋的に来て物を献上し見えたという。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 金印の紹介
金印を様々な角度で撮影、紹介している。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 金印の紹介 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 金印レプリカでの体験
金印の重さを体験しよう
金印はおもさ108.729g。身近なもので例えると、10円玉の24枚分に相当します。
金印の実物を手にとって重さを感じることは難しいですが、このレプリカは108gの重さに調整しています。
手にとって金印の重さを体験してください。
金印の「第一印象はなんと小さい、続けてなんときれいな金印だ」、であったが、更に、なんと重い、が加わった。たかだか2.3センチ四方、高さ2.3センチの印鑑である。指先で軽く抓めると思っていた。しかし、金の比重は19.32g/cm3である。重いのは当然である。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 金印レプリカでの体験
金印を粘土に押して封印泥を体験する
大事な手紙や荷物に封をするために粘土に押された印を「封印泥」といいます。
粘土に実際に金印を押して封印泥を体験してみよう。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 金印の時代
『後漢書』には建武中元2(57)年、「倭奴国」が漢に使いを送り、光武帝が「印綬」を授けたという記載がある。この「印」が江戸時代の天明4(1784)年に志賀島で出土した金印「漢委奴国王」と考えられる。
漢王朝には国内の位に応じて印綬を与える制度があり、これを周辺の国々にも適用して皇帝を頂点とする秩序に組み込もうとした。倭奴国にとって、金印「漢委奴国王」は漢を中心とした東アジア外交ヘデビューを果たした証しである。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 もう一つの蛇鈕金印
蛇鈕金印 「?(てん)王之印」
1957年に中国雲南省石寨山で発見された蛇鈕の金印。前漢の「史記」西南夷列伝に「元封2(B.C.109)年?(てん)の王”嘗羌”を攻め、降伏した嘗羌に王位を与えた」とある。
つまみに蛇をかたどった金印は「漢委奴国王」と「?(てん)王之印」の2点しか無く、史実を証明する貴重な考古学資料である。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 もう一つの蛇鈕金印 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 印と綬
漢では官僚に印を与え、文書を作成する際に印を使って封印することが求められた。
印の材質は位に応じて異なり、皇帝は玉、以下金・銀・銅と決まっていた。また鈕(つまみ)の形にも違いがあった。
綬は長く幅広い絹紐で、帯から垂らして端を印につなぎ懐に入れていた。綬は位によって色が異なり、外見でその人の身分を知ることができる。さらに印の材質と綬の色の組み合わせは、金印に紫綬、銀印に青綬などのように決まっていた。
*玉=色や光沢が美しい鉱物 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 金印発見
江戸時代中頃の天明4(1784)年、金印は博多湾に浮ぶ志賀島で発見された。発見届である「口上書」によると、2月23日(今の暦では4月12日)百姓「甚兵励」か「叶の崎」の田で、溝を修理していると、石の下に光るものかあり取り上けたという。金印は農民によって偶然見つかったのてある。
金印の重要性をいち早く指摘したのは福岡藩の儒学者亀井南冥である。南冥は「金印弁」と題した論文を著し、「後漢書」に書かれている印であること、鈕の形が蛇であることなどを詳細に論じた。
金印の印影は4月には京都まで伝わり、江戸・上方の学者、文化人の関心を集め、数多くの論考が書かれた。長い金印論争の幕開けである。論者の関心は印面の文字「委奴国」の解釈に集まった。最初に亀井南冥が「ヤマトノクニ」と読んだ以外は「伊都国」説が多く、他に「熊襲」「琉球」など、いずれも九州の一小国という解釈だった。天保7(1836)年には、松浦道輔が蛇鈕が漢代の制度に一致しないとして、初めて偽作説を唱えている。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 金印発見以降の歴史
金印発見以降の解釈論争、昭和53年の黒田家から福岡市への寄贈などの歴史が年表になっている。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 金印をめぐる論争
1.「漢委奴国王」の読み方は?
発見以来、「委奴」について意見が分かれている。「イト」「ワ」などと読む説があるが、今日では「漢の委の奴の国王」という三宅米吉の読み方が定説となっている。しかし、金印の資料的価値に関わるだけに議論が耐えない。
2.出土場所はとこか?
金印の発見地は、文献、古老の話から中山平次郎博士が現在の志賀島の石碑の場所に特定した。しかし発掘調査では金印の時代の痕跡は見つかっていない。
3.志賀島に埋めた理由は?
墳墓説、隠匿説、航海安全を祈った埋納説、祭祀遺跡説など諸説あるが、決め手がなく決着していない。
4.発見者は誰か?
「口上書」の発見者は甚兵衛だが、仙腰a尚の掛軸には「秀治と喜平」と書かれている。実際の発見者は秀治と喜平で、甚兵衛は土地の所有者とする説がある.
このほかに金印がなぜ志賀島に埋められたのか、実際に使われたのかなど議論は尽きない。一方、漢代の印章制度、
漢が倭に金印を与えた意味など、漢側の視点からの研究も進んでいる。 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 縄文時代の風景 |
|
福岡博物館 2階 志賀島金印展示室 金印「漢委奴国王」いろいろ
このコーナーでは、金印豆知識、としての金印を紹介します。金印の実際の重さと封泥印を体験することで弥生時代の奴国ヘタイムスリッブしてみましょう。当時の印章は現在と違い、紙に押すのてはありません。印は荷物や木簡を結んだ紐の結び目を封じた粘土に押されました。封泥により送り主が誰であるのかがすぐに分かリ、荷物が途中で開封されていないことも確認できました。金印の重さは歴史の重みでもあるのです。
国宝金印「漢委奴国王」
一辺 2.237cm 漢代の一寸(いっすん)に相当し、
全高 2.236cm 10円玉と同じ大きさです。
重量 108.729グラム 10円玉24枚と同じ重さです。
鈕(つまみ) とぐろを巻いた蛇のかたちです。
体にはうろこを模した魚子(ななこ)が125個
円形の鏨(たがね)で打ち込まれています。
|