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靖国神社 中門鳥居前で右折し南門へ |
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靖国神社 南門前 幕末志士ゆかりの練兵館跡
この練兵館は、神道無念流の剣客斉藤弥九郎により、それまで俎橋付近にあった練兵館が天保9年(1838年)の火事で類焼したため、この地に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。 練兵館には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。また、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれる。 なお、この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれている。 |
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靖国神社 南門前 幕末志士ゆかりの練兵館跡 |
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靖国神社 南門前で右折、拝殿を囲む柵沿いに西進 |
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靖国神社 南門前で右折、拝殿を囲む柵沿いに西進 |
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靖国神社 南西角にある梅林
芝生に梅が植えられている一画がある。梅林というほどには梅の木はない。 |
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靖国神社 梅林 海軍経理学校正門敷石
海軍経理学校正門敷石
海軍経理學校の沿革
明治七年十月、芝山内夭神谷に設けられた海軍会計學舎は幾度かその名稱を変え明治四十年に海軍経理學校となった。 この間校舎も数度位置を変えて、明治二十一年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和七年同じ築地の隅田川河畔(現在の勝鬨橋右岸)に移築された。 昭和二十年九月、七十一年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戦力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。その間諸戦役事変に際會して國に殉じた者も数多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆發展に多大の貢献をしている。 |
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靖国神社 梅林 海軍経理学校正門敷石 |
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靖国神社 梅林 守護憲兵之碑 |
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靖国神社 梅林 守護憲兵之碑
憲兵はその職務上他の兵科から煙たがれ、その割には前線に出ることもないため昇進もままならなかった。太平洋戦争では捕虜収容所や占領地行政に携わったため、B、C級戦犯として処刑された数も多く、評価されない兵科であった。その無念さが滲みでた説明文である。 |
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靖国神社 梅林 守護憲兵之碑
守護憲兵之碑
憲兵の任務は監軍護法に存したが、大東亜戦争中は更に占領地の行政に或は現地民族の独立指導に至誠を尽した。 又昭和二十年三月十日の東京大空襲の戦火が靖國の神域を襲うや神殿を挺身護持したのも憲兵であった。然しその陰には異国の戦線に散華した幾百万の英霊と、いわれなき罪に問われ非命に斃れた同僚憲友があったことを忘れてはならない。 靖國神社御創立百年に当る昭和四十四年四月六日この功績を顕彰し後世に伝承するため全国憲友会連合会より当社に同碑が奉納され、更に同会創立四十周年の平成五年四月八日にはその記念事業として会員一同、建立当時を振り返り憲友幾万の心の碑であるこの碑が永久に護持され且つ靖國の御社頭の永遠なる御安泰を願って真心籠る多額の基金が寄せられた。 |
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靖国神社 梅林から右に曲がっていく |
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靖国神社 梅林風景 |
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靖国神社 本殿裏に沿って北上 |
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靖国神社 神苑 洗心亭 |
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靖国神社 神苑 神池庭園 |
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靖国神社 参集殿 |
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靖国神社 鋼製三十封度船用加農砲
鋼製三十封度船用加農砲
安政元年(一、八五四)、伊豆下田港外に停泊中の露国軍艦ディアナ号は、大地震の津波により坐礁した。
乗組員は幕府に請い、スクーナー船二隻を造り、之に乗じて帰国した。
後露国政府はディアナ号の備砲五十二門を幕府に贈り、その厚誼を謝した。
本砲はその一門である。
口 径 一六〇粍米
全 長 二、五七〇粍米 |
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靖国神社 鋼製三十封度船用加農砲 |
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靖国神社 遊就館 |
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靖国神社 能楽堂 |
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靖国神社 拝殿、参集殿 |
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靖国神社 中門鳥居 |