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二条城(東大手門〜二の丸御殿〜二の丸庭園)

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東海道新幹線 京都駅 八条口 東海道新幹線 京都駅 八条口 

東海道新幹線 京都駅 八条口〜二条城(東大手門〜二の丸〜清流園)〜平安神宮(應天門〜大極殿〜神苑)〜知恩院〜円山公園〜八坂神社〜リーガロイヤルホテル京都

【撮影記録】
令和元年 10月 25日 雨
12:00〜20:05 12,400歩(概算 8.1km) 

前夜から近畿、東海を東進してくる低気圧と房総半島沖を北上する台風21号の影響で早朝から豪雨の中、京都に向かった。この豪雨は関東、東北に甚大な損害を与えたが、京都も終日雨で平安神宮の神苑散策は苦労した。移動は観光バスなので救われたが、新幹線の遅延などで京都集合に間に合うか不安だった。
約60年前の中学の修学旅行以来の二条城、平安神宮だったが庭園以外は撮影禁止であり、残念だった。
東海道新幹線 京都駅 八条口 東海道新幹線 京都駅 八条口 

新横浜駅のような激しさはないものの、雨が降る中を駅前の観光バス乗降エリアに向かう。JR東主催の時代祭観光ツアーの参加者は23名である。
二条城 東大手門 車窓からの風景 二条城 東大手門 車窓からの風景 

東大手門[重要文化財]

二条城の正門にあたり、現存の門は1662年(寛文2年)頃の建築と考えられています。築城当時は現在のよう
に櫓門(2階建て)でしたが、寛永の二条城行幸時には天皇を2階から見下ろさないようにとの配慮から一重の門に建て替えられたと言われています。
二条城 東大手門 二条城 東大手門 

二条城は1603年(慶長8年)江戸幕府初代将軍徳川家康が天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。将軍不在畤の二
条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていました。
 3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために城内は大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが数多く加えられました。壮麗な城に、天皇を迎えることで、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめたものです。
 1867年(慶応3年)には15代将軍慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは日本史上あまりにも有名です。
 二の丸御殿、二の丸庭園、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構を見ることができま。1994年(平成6年)、ユネスコ世界遺産に登録された二条城は、徳家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見つめてきた貴重な歴史遺産と言えます。

約60年前の中学校の修学旅行で訪れて以来であるから、来た、ということ以外の記憶はない。雨の中をガイドに従って正門である東大手門から入る。
二条城 東大手門 番所 二条城 東大手門 番所 

番所

寛永3年(1626)の行幸を描いた寛永行幸絵図のこの位置に番所は描かれているが、現在の建物は、寛文3年(1663)に建てられたことが分かっている。平時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警護していた。
1組50人の在番が2組常駐し、この番所は彼らの詰所の一つとなっていた。城内にはこの他、唐門前、北大手門周囲、西門周囲等、計9棟の番所があったが、現在残っているのはここだけである。全国でも番所が現存する城は江戸城や丸亀城等わずかしかなく、貴重な建物である。
二条城 東大手門 番所 二条城 東大手門 番所 
 二条城 塀に沿って東南の隅を曲がる 二条城 塀に沿って東南の隅を曲がる 
二条城 唐門[重要文化財] 二条城 唐門[重要文化財] 

唐門[重要文化財]

二の丸御殿の正門にあたり、切妻造、桧皮葺の四脚門でその屋根の前後に唐破風が付きます。門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する「唐獅子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻を飾リます。2013年(平成25年)の修復工事によって、往時の姿によみがえりました。
二条城 二の丸御殿[国宝] 二条城 二の丸御殿[国宝] 
二条城 二の丸御殿[国宝] 二条城 二の丸御殿[国宝] 

二の丸御殿[国宝]

東南から北西にかけて、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿です。部屋
数33室、800畳余りもある内部は、代表的な「松鷹図」をはじめ、将軍の威厳を示す虎や豹、桜や四季折々の花を描いた狩野派の障壁画(模写画)で装飾されています。
二条城 二の丸御殿[国宝] 二条城 二の丸御殿[国宝] 

靴を脱いでキュッキュッとなる鶯張りの廊下を歩くが、見事な障壁画で飾られた多くの部屋があり、人形を用いた徳川慶喜が大政奉還を告げた広間などがあるが、残念ながら写真は厳禁である。また、障壁画が痛むのを防ぐため全ての障子が閉じられており、雨のせいもあって薄暗い。
二条城 二の丸御殿[国宝] 二条城 二の丸御殿[国宝] 
二条城 二の丸御殿[国宝] 二条城 二の丸御殿[国宝] 

国宝 二の丸御殿

国宝 二の丸御殿

二の丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康により江戸初期の慶長8年(1603)に造営され、寛永3年(1626)、後水尾天皇行幸にそなえて、第3代将軍家光の代に改造が行なわれ、現在の姿となった。慶応3年(1867)には、第15代将軍慶喜により、大政奉還の発表が行われた。
御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952)に国宝に指定された。内部を飾る障壁画は日本絵画史上最大の画派である狩野派により描かれた。現存面数は2000面を超え、そのうち1016面が国の重要文化財に指定されている。訪問者を迎える壮大な遠侍から、公式な対面所である大広間へと、さらには将軍が普段くつろぐ白書院へと、各棟、各部歴は機能に合わせて規模としつらえを異にしている。
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 

さすがは徳川家の威信をかけた二条城の庭園で、広大である。規模だけで言えば東京の北の丸公園のようである。
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 

二の丸庭園[特別名勝]

池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園です。1626年(寛永3年)の後水尾天皇行幸のために作事奉行・小堀逶州のもとで改修されました。二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿の3方向から鑑賞できるように工夫されています。
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二の丸御殿の床下に集まる観光客 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二の丸御殿の床下に集まる観光客 

なんで観光客が二の丸御殿の床下に集まるのだろうか、と不思議に思ったが特に案内板はない。この理由は近くによって分かった。
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二の丸御殿の床下に集まる観光客 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二の丸御殿の床下に集まる観光客 

二の丸御殿の床は鶯張りの廊下で、見物客の歩きによってキュッキュッと音がする。それを聞くために屯している。
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 
二条城 二の丸庭園[特別名勝] 二条城 二の丸庭園[特別名勝] 



 
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