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岡山城(烏城) 不明門(あかずのもん)
表書院(藩庁)の南端から本段(城主居館)へ上る石段の入口に設けた渡櫓門、天守閣のある本段全体の入口を固めた大形の城門であるが、平素の出入は北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉ざされていたことから、「不明門」と呼ばれた。明治の廃城後取り壊されたが昭和41年、鉄筋コンクリートで再建された。 |
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岡山城(烏城) 不明門(あかずのもん) |
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岡山城(烏城) 不明門(あかずのもん) |
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岡山城(烏城) 天守閣広場 |
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岡山城(烏城) 天守閣の礎石
天守閣は昭和20年6月の戦災で焼失し、昭和41年に元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため礎石のみをここに移し、元の通りに配置している。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 |
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岡山城(烏城) 天守閣広場 |
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岡山城(烏城) 天守閣 |
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岡山城(烏城) 天守閣 岡山城の沿革
備前の国邑久から起った宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして
城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)の秋であった。それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎をつくった。
その子八郎秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石をこえる大領主となった。
ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行ない、慶長2年(1597)、3層6階の天守閣が落成するにおよんで、城ぶしんは一段落した。
これがこの地に豪壮きわまりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などが城域を画し、近世城下町の骨格ができあがったのである。
宇喜多秀家は、慶長5年(1600)の関が原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗れて八丈島へ流された。その後小早川秀秋が筑前の国・名島から移って岡山城主となつたか、在城わずか2年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。そのあと姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。以後池田氏31万5干石の時代が続き明治維新におよんだ。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 地下1階
入口は地下1階である。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階 南方面 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階 南方面 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階 西方面 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階 西方面
旭川が見える。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階 北方面 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階 北方面
手前に旭川、後方に後楽園が見える。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階 東方面 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階 東方面
正面の山は操山である。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 5階
外から見る天守閣5階と違い、階段を除けば各方面の窓から外を眺める通路があるだけの狭い空間である。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 4階
北側で手前に旭川、後方に後楽園が見える。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 4階
南側で天守閣広場が見える。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 3階
宇喜多、小早川家時代の展示がされている。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 3階 |
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岡山城(烏城) 天守閣 3階 |
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岡山城(烏城) 天守閣 2階
池田家関連の展示がされている。 |
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岡山城(烏城) 天守閣 2階 |
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岡山城(烏城) 天守閣 1階
庶民の暮らしが展示されている。 |