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隅田川テラス 明石町(聖路加ガーデン前)船着場から北上 |
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隅田川テラス 明石町(聖路加ガーデン前)船着場から北上
「隅田川右岸 河口より10km」の石碑がある。 |
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隅田川テラスを北上 聖路加ガーデン セントルークスタワー |
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隅田川テラスを北上 |
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隅田川を遡上する水上バス 「あじさい」 |
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隅田川テラスを左折し、聖路加ガーデンへ |
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聖路加ガーデン エントランスホール
聖路加ガーデン(せいるかガーデン)とは、東京都中央区明石町にある2棟の超高層ビルから成る複合施設。佃にある大川端リバーシティ21と共に隅田川に沿ってスカイラインを形成している。
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聖路加ガーデン エントランスホール |
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聖路加ガーデンから聖ルカ通りへ
聖路加ガーデンから中央区道412号を渡り、聖路加病院の左にある聖ルカ通りへ入り西進する。 |
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聖路加ガーデンから聖ルカ通りへ |
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聖ルカ通りを西進 タイムドーム明石 |
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聖ルカ通りを西進 聖路加国際大学前 日本近代文化事始の地 |
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聖ルカ通りを西進 聖路加国際大学前 日本近代文化事始の地
聖ルカ通りの聖路加国際大学の向かい側にあり、「慶応義塾発祥の地」」と、「蘭学の泉はここに」の二つの碑がある。
この地は中津藩奥平家下屋敷があったところである。藩医だった前野良沢らが集まり、オランダ語の解剖書を翻訳、解体新書を出した。慶応義塾の創始者である福沢諭吉も中津藩士だった。 |
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聖ルカ通りを西進 聖路加国際大学前 日本近代文化事始の地(慶応義塾発祥の地)
安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。
創立百年を記念して昭和三十三年慶応義塾これを建つ
台上の本には有名な句が書かれている。
天は人の上に人を造らず
天は人の下に人を造らず |
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聖ルカ通りを西進 聖路加国際大学前 日本近代文化事始の地(蘭学の泉はここに)
中津藩奥平家下屋敷があったところで、小浜藩医・杉田玄白は中津藩医・前野良沢とともにオランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を3年かけて苦心の末翻訳し、明和8(1771)年に「解体新書」として刊行しました。 |
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聖ルカ通りを西進 築地川公園(曙橋)前交差点で右折 |
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聖ルカ通りを西進 築地川公園(曙橋)前交差点で右折
築地川公園(曙橋)前交差点の角に聖路加国際大学がある。
聖路加国際大学の遊歩道には立教大学の前身である立教学院発祥の地碑や、聖路加国際病院トイスラー記念館がある。 |
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聖路加国際大学沿いに北上 浅野内匠頭邸跡の碑
築地川公園(曙橋)前交差点から木立が深く、交差点すぐにある芥川龍之介生誕の地碑を見落としただけでなく、この碑も見落とすところだった。
なお、案内板は二ヶ月前の平成31年3月に更新されている。 |
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聖路加国際大学沿いに北上 浅野内匠頭邸跡の碑
東京都指定旧跡 浅野内匠頭邸跡
常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)藩主であった浅野長直(官職名・内匠頭)は、正保二年(一六四五)に領地替えによって、播磨国赤穂藩(赤穂郡とその隣接地を含めた五万三五〇〇石の所領)へ入封しました。そして、長直の子・長友(官職名・采女正)の代に所領の一部を親族に分知して五万石となります。延宝三年(一六七五)には、父・長友から家督を継いだ長矩が赤穂藩主三代藩主となり、後に祖父と同じ官職の内匠頭を与えられました。
江戸時代に鉄砲洲と称されていた当該地には、江戸中期頃まで赤穂藩浅野家の上屋敷が置かれていました。当時の赤穂藩邸は、西と南の二面が川(掘割)に面した広大な敷地(およそ八九〇〇坪)であったことが古地図からも確認できます。
しかし元禄十四年(一七〇二)三月十四日、勅使御馳走役(饗応役とも)を務めていた浅野内匠頭長矩が、江戸城の松之大廊下において儀式・典礼を司る高家職の吉良上野介義央に対して刃傷におよんだため、即日切腹を命ぜられました。この事件によって、江戸上屋敷や所領は没収され、赤穂藩浅野家は断絶となりました。
なお、浅野家旧臣たちは、主君の仇を討つため、元禄十五年十二月に本所・吉良邸へ討ち入った事件は、後の世にも語り継がれる歴史的事件の一つとして知られています。
本懐を遂げた浪士たちは、浅野家の菩提寺である泉岳寺へ向かう途中で旧上屋敷付近を通ったとも伝えら
れており、当該地は赤穂事件に関係する縁の地の一つとして東京都の旧跡に指定されています。
平成三十一年三月 |
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聖ルカ通りを西進 築地川公園(曙橋) |
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聖ルカ通りを西進 築地川公園(曙橋) |
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聖ルカ通りを西進 築地三丁目交差点で右折、新大橋通りへ |
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新大橋通り 日比谷線 築地駅 |