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東海道(国道1号) 坂を上り西進 大磯町役場 |
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東海道(国道1号) 坂を上り西進 大磯中学校前交差点手前で右折
旧東海道の松並木が始まる大磯中学校前交差点手前で、島崎藤村邸の道標に従い右折する。 |
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東海道(国道1号) 坂を上り西進 大磯中学校前交差点手前で右折 |
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住宅街を直進 |
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突き当りで道標に従い左折 |
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旧島崎藤村邸
旧島崎藤村邸
町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は三間の平屋建ての民家で外壁には杉の皮、引き戸には現在では希少な大正硝子が使われている。小さい素朴な冠木門に割竹垣に囲まれた小庭。カナメやモチの若葉、朝顔や萩、湯河原から取り寄せた寒椿が花を咲かせる小庭の眺めは藤村の心の慰めで、この家を「静の草屋」と呼んでいた。簡素を信条とする藤村の気配りが感じられる。
昭和18年8月22日午前O時35分永眠。毎年8月22日大磯駅から5分の場所にある地福寺で住職による回向後、献花、献香が行われる。
生前、藤村は静寂で趣があり潮風も吹き通ってくるような地福寺の境内を好み、散歩の際にもよく立ち寄り、自身の墓地もここにしたいと言っていたという。
藤村亡き後、静子夫人が住んでいたが、終戦間際の切迫した状況により箱根に疎開、その後空き家になってしまうことから昭和24年から昭和27年に亡くなるまで高田保が住み、その後静子夫人が昭和48年に亡くなるまで住まわれた。
(川崎稲門会) |
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旧島崎藤村邸
当時としては立派な邸宅だったのだろうが、文豪の邸宅という目で見ると小振りかなと言う気もする。 |
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旧島崎藤村邸 |
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旧島崎藤村邸 |
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旧島崎藤村邸 |
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旧島崎藤村邸前 駐輪場 |
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旧島崎藤村邸前 駐輪場
大磯町指定有形文化財 旧島崎藤村住宅 静の草屋
平成六年十二月二十一日指定
主屋 木造、平屋建、寄棟造、トタン葺
離れ 木造、平屋建、切妻造、トタン葺
表門 木造、腕木門、トタン葺
このに住宅は小説家島崎藤村が最晩年の昭和十六年二月から同十八年八月、七十一歳で逝去するまでの二年半、静子夫人と暮らした住まいです。住宅は町屋園と呼ばれた貸別荘住宅の一軒で、関東大震災から昭和初期に建てられたものと考えられます。
主屋は庭に面して広縁が廻る八畳の居間を中心とし、四畳半の書斎と控の間が付く簡素な住まいで、藤村が<静の草屋>と称し、質素を旨とする生活に合った住まいです。未完の絶筆『東方の門』はここでしたためられ、文豪終焉の地となりました。なお離れは藤村亡き後、昭和二〇年静子夫人が建てたものです。 |
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旧島崎藤村邸 |
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旧島崎藤村邸 門前から狭い道を進む |
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東海道本線沿いに進む |
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東海道本線沿いの道を少し進んで左折、統監道へ
東海道本線沿いの道をっ進んだと思ったらすぐ左折する。団体行動なので迷わないが、個人だと見落とす可能性が高い。 |
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東海道本線沿いの道を少し進んで左折、統監道へ
統監道は、大磯駅から線路沿いに西に行き東小磯踏切(現在は、ゆめのちかみち)の所を左折し国道に接するまでの道路で、延長532メートル、幅員3.6メートルである。
初代総理大臣伊藤博文は、1896年(明治29年)滄浪閣を建て、翌年に大磯町民となり町の発展に尽した。この間、1905年(明治38年)初代韓国統監となった。統監時代に大磯駅から西小磯へ通ずる道路を、伊藤博文の尽力によって新設したので、時の宮代新太郎町長が官名をとって「統監道」と命名した。 |
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統監道を南下
統監道
伊藤博文の邸宅(滄浪閣)に通じる道。明治38年に締結された第二次日韓協約に基づき、日本は韓国の外交権を掌握、韓国は日本の保護国となり漢城(現ソウル)に統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任した。伊藤が大磯駅と滄浪閣の往来にこの道を通ったことから「統監道」と呼ばれるようになった。
(川崎稲門会) |
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統監道を南下 松並木手前で東海道(国道1号)に出て左折 |
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東海道(国道1号) 統監道バス停
統監道バス停で20分ほど待って、城山公園行きのバスに乗る。
普段整理券方式のバスに乗らない人だらけなので、SuicaなどのICカードでの乗車、下車方法が分からず、もたつく。特に接触部に軽くタッチはだめで、しっかり押し付けないとエラー音が鳴る。 |