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掲示板(一言どうぞ)


両国公園(勝海舟生誕の地)〜北斎通り〜錦糸町駅

【関連サイト】   初冬の本所散策(北斎通り、本所吉良祭、回向院)H301208(両国公園 勝海舟生誕の地) 
初冬の本所散策(北斎通り、本所吉良祭、回向院)H301208(北斎通り 緑町公園〜江戸東京博物館〜京葉道路)
初冬の本所散策(北斎通り、本所吉良祭、回向院)H301208(錦糸町駅〜北斎通り(大横川親水公園〜野見宿禰神社))

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区立両国小学校 南側の壁沿いに東進 区立両国小学校 南側の壁沿いに東進 
突き当りの斜め左の両国公園に向かう 突き当りの斜め左の両国公園に向かう 
両国公園 南入口 両国公園 南入口 

数は少ないが、本所義士祭を見物した人々が勝海舟生誕の地探訪に訪れており、中には公園内のベンチで元禄市で買った弁当などを食べたり、宴会をしていた。
両国公園 南入口 勝海舟生誕の地 両国公園 南入口 勝海舟生誕の地 

勝海舟生誕の地

 勝海舟は、文政六年(一八二三)正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷でて生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八〇八)七歳の時勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野右京の自宅二階(現亀沢二丁日三番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢三丁日六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡本融政の貸地(現縁四丁日二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。
(以下 略)
両国公園 東側塀沿い 勝海舟幕末絵巻 両国公園 東側塀沿い 勝海舟幕末絵巻 

勝海舟の幕末の事績について詳細な絵巻としたもので、次々に人が訪れるので写真を撮るのは断念した。
両国公園 勝海舟生誕の地記念碑 両国公園 勝海舟生誕の地記念碑 

以前は記念碑と由来碑、それらの説明を記した案内板があるだけだった。

時期は分からないが、勝海舟幕末絵巻として立派な説明板が作られ、ほとんど訪れる人もいなかった一画も次から次へと見物客が訪れる。
両国公園 両国公園 

両国公園の南東の一画は勝海舟関係の資料が展示されているが、それ以外は地元の子供達が遊び戯れている。
両国公園 熱中症計はほぼ安全 両国公園 熱中症計はほぼ安全 

現在時刻は11:55で、温度21.5℃、湿度31%、熱中症計はほぼ安全である。

前回の水天宮での時刻は10:20で、温度18.1℃、湿度38%、熱中症計はほぼ安全だった。1時間半経って温度は3.4土上がり、湿度はわずかに下がった。さすがにコートを着てでの歩きはきつく、前を開けて歩いている。
 両国公園 北中央の出口から出る 両国公園 北中央の出口から出る 
両国公園 北西角で右折 両国公園 北西角で右折 

向いの建物は両国小学校の北東の角である。
突き当りを出て右折、京葉道路へ 突き当りを出て右折、京葉道路へ 
京葉道路を東進 本所警察署 両国交番 京葉道路を東進 本所警察署 両国交番 

両国交番の手前の小道を右折すると両国公園の北中央出口である。
 京葉道路を東進 両国亭 京葉道路を東進 両国亭 

毎日18時開演で、大トリには好楽、鳳楽などの名前も並ぶ。まだ12時を過ぎたばかりで客が並んでいる理由は分からない。
京葉道路 緑一丁目交差点で左折、清澄通りへ 京葉道路 緑一丁目交差点で左折、清澄通りへ 
清澄通りを北上 JR総武線の高架下を進む 清澄通りを北上 JR総武線の高架下を進む 
清澄通りを北上 江戸東京博物館 清澄通りを北上 江戸東京博物館 
清澄通りを北上 江戸東京博物館前 都営大江戸線 両国駅 清澄通りを北上 江戸東京博物館前 都営大江戸線 両国駅 

交差点の先の茶色の建物は日大一中、一高である。
清澄通り 江戸東京博前交差点で右折、北斎通りへ 清澄通り 江戸東京博前交差点で右折、北斎通りへ 
清澄通り 江戸東京博前交差点で右折、北斎通りへ 清澄通り 江戸東京博前交差点で右折、北斎通りへ 
北斎通りを東進 両国湯屋 江戸遊 北斎通りを東進 両国湯屋 江戸遊 

東洋式整体、食事などを楽しむ所で、18歳未満は入館禁止である。「東洋式整体」とは何か、「18歳未満は入館禁止」の理由は不明である。
北斎通りを東進 緑町公園 葛飾北斎生誕地 北斎通りを東進 緑町公園 葛飾北斎生誕地 

銀色の建物は「すみだ北斎美術館」である。
北斎通りを東進 緑町公園 葛飾北斎生誕地 北斎通りを東進 緑町公園 葛飾北斎生誕地 

絵画と文学 葛飾北斎生誕地(墨田区 亀沢付近)

 宝暦十(一七六〇)年九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。
 代表作『冨嶽三十六景』は、天保二(一八三一)年から天保四(一八三三)年にかけて制作。とても七〇歳を過ぎてからの作品とは思えません。八〇歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永二(一八四九)年、「あと一〇年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。
北斎通りを東進 緑町公園 葛飾北斎生誕地 北斎通りを東進 緑町公園 葛飾北斎生誕地 

江戸の町 南割下水

 明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な間発に乗り出します。まず着手したのは、竪川、大横川、北十間川、横十間川などの運河と掘割の開削と、両国橋の架橋です。掘割の一つが南割下水で、雨水を集めて川へ導くために開削されたものです。北には(現在の春日通り)北割下水も掘られました。
 幅は一間(約一・八m)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなりました。
 昭和初期に埋め立てられましたが、この付近で葛飾北斎が生まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。また、この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。
 北斎通りを東進 野見宿禰神社 北斎通りを東進 野見宿禰神社 

 かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。明治十八年(一八八五)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
 石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
 境内には、昭和二十七年(一九五三)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名が、もう一基には四十七柏戸剛以降の名前が刻まれています。

普段はこの門も正門も施錠されて中に入れないが、ちょうど一年前(平成30年)に珍しく立ち入ることができた。
北斎通りを東進 すみだ百景 すみまるくん 亀沢三丁目 バス停 北斎通りを東進 すみだ百景 すみまるくん 亀沢三丁目 バス停 
北斎通りを東進 亀沢四丁目交差点で三ツ目通りを渡る 北斎通りを東進 亀沢四丁目交差点で三ツ目通りを渡る 
北斎通りを東進 亀沢四丁目 北斎通りを東進 亀沢四丁目 
北斎通りを東進 大横川親水公園 北斎通りを東進 大横川親水公園 

公園の北側には東京スカイツリーが見える。
北斎通りを東進 大横川親水公園 北斎通りを東進 大横川親水公園 
 北斎通りを東進 すみだトリフォニーホール 北斎通りを東進 すみだトリフォニーホール 
JR 総武線 錦糸町駅 北口 JR 総武線 錦糸町駅 北口 
JR 総武線 錦糸町駅 北口 JR 総武線 錦糸町駅 北口 



 
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