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京葉道路 両国一丁目交差点で左折、一の橋通りへ
両国一丁目交差点の信号標識は一の橋通りの北側にしかなく、正面、左には標識がない。目標としては、回向院山門から最初の交差点であることだが、一の橋通りは写真でも分かるように片道一車線の地味な道路で見落としかねない。 |
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京葉道路 両国一丁目交差点で左折、一の橋通りへ |
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京葉道路 両国一丁目交差点で左折、一の橋通りへ |
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一の橋通り 両国一丁目交差点 界隈案内図 |
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一の橋通り 両国幼稚園 回向院正門跡 |
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一の橋通り 両国幼稚園 回向院正門跡
回向院正門跡
回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。
かっての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。
両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。 |
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一の橋通り 両国幼稚園 回向院正門跡 |
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一の橋通り 馬車通り交差点 相生町跡 |
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一の橋通り 馬車通り交差点 相生町跡
相生町跡
ここから東側は相生町といわれていました。
嘉永五年(一八五二)の本所絵図によると、一之橋から二之橋東側にかけての竪川沿いが相生町となっています。元禄二年(一六八九)から徐々に町屋ができていったようです。
町名は、おめでたい言葉である「相生」がっけられました。なお、旧両国橋の東詰め、隅田川と竪川が交差する角地が、相生と対をなす「尾上」町と名付けられていました。
相生町五丁目(現、緑一丁目)には、俳人の小林一茶が、深川の愛宕神社居住の後に文化元年(一八〇四)十月頃から祖母の三十三回忌に郷里に旅立つまでの文化五年(一八〇八)まで住んでいました。 |
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一の橋通り 一之橋北詰交差点 |
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一の橋通り 一之橋北詰交差点 |
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一の橋通り 一之橋北詰交差点
忠臣蔵 一之橋
幕府は低湿地であった本所の開発にあたリ、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、蒿上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
万治二年(一六五九)、縦の代表格、竪川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。
竪川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。
一之橋は、赤穂浪士が泉缶寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。
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一の橋通り 一之橋北詰交差点 竪川に架かる一之橋 |
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一の橋通り 一之橋北詰交差点 竪川に架かる一之橋 |
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一の橋通り 江島杉山神社 |
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一の橋通り 江島杉山神社 |
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一の橋通り 江島杉山神社 |
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一の橋通り 江島杉山神社
江島杉山神社
鍼術の神様・杉山和一(一六一〇〜九四)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。神奈川県藤沢市の
江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。
和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもリ鍼術の一つである管銭術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。
この評判を聞いた綢吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました。 |
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一の橋通り 一の橋通り案内柱
一の橋通りの終点近い新大橋交差点手前の案内柱である。 |
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一の橋通り 新大橋交差点で右折、新大橋通りへ
新大橋交差点で直進し、新大橋通りを渡ると一の橋通りは万年橋通りとなり、南下すると江東区芭蕉記念館を経て、芭蕉庵史跡の芭蕉稲荷神社、深川芭蕉庵に至る。 |