|
松陰神社 社殿右横 神札授与所 |
|
松陰神社 社殿右横 神札授与所
絵馬は2種類あり、いずれも吉田松陰が描かれている。「勝」絵馬と「志」絵馬との違いは分からない。 |
|
松陰神社 社殿前 奉献 石燈籠
境内に立ち並ぶ32基の石燈籠は、毛利元昭公をはじめ先生門下の伊藤博文、山縣有朋などの縁故者より明治41年(1908)に奉献されたものです。
その燈籠に刻まれた文字は書家高田竹山による八分隷書体によるものです。
写真は社殿の左にある燈籠で、奥から毛利元昭(毛利宗家当主、公爵)、吉川經健・毛利元忠、毛利元秀・毛利元雄の奉納で、参道の左右に1基づつ立っている。 |
|
松陰神社 社殿前 奉献 石燈籠 伊藤博文
墓所への道の先頭にあるのが伊藤博文寄進の石燈籠である。大勲位公爵伊藤博文と刻まれている。
摩耗が激しく読みにくかった。伊藤博文のはず、と思って見るとうっすらとそのような文字が浮き出てくるという感じである。 |
|
松陰神社 社殿前 奉献 石燈籠 山縣有朋 |
|
松陰神社 社殿前 奉献 石燈籠 案内 |
|
松陰神社 吉田松陰墓所参道 |
|
松陰神社 吉田松陰墓所参道 昭和女子大 恩師の墓、同窓の墓
墓所への道を歩いていると大きな碑が目に付いた。企業では殉職者の慰霊碑が建てられていることがあるが、三軒茶屋にある伝統ある昭和女子大の碑である。 |
|
松陰神社 吉田松陰墓所参道 墓所入口 |
|
松陰神社 吉田松陰先生他烈士墓所 案内
文久3年(1863)正月、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰生生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年11月、福原乙之進を埋葬した。 禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。 明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。 |
|
松陰神社 吉田松陰先生他烈士墓所 案内 |
|
松陰神社 吉田松陰先生他烈士墓所 案内 |
|
松陰神社 吉田松陰先生他烈士墓所 |
|
松陰神社 吉田松陰先生他烈士墓所 |
|
松陰神社 吉田松陰先生他烈士墓所
吉田寅次郎藤原矩方 墓 天保元年(1830)〜安政6年(1859)
長州藩士、号は松陰。年少より大義を唱え、松下村塾を主宰、明治維新の原動力となる有為の青年を多数輩出した。安政の大獄により刑死。小塚原回向院より改葬。享年30歳。 |
|
松陰神社 吉田松陰先生他烈士墓所 長藩第四大隊戦死者招魂碑
長州藩第四大隊の戦死者招魂碑。明治37年桂太郎によって建立。桂太郎は慶応4年に長州藩第四大隊二番隊司令を命ぜられている。 |
|
松陰神社 参道 古札納所(おたきあげ)
古札納所の注意書きが面白い。上段に納められるもの、下段に納められないものとが例示されている。神社から受けた御札や破魔矢などはお焚き上げの対象であるが、寺から受けたものは受けた寺に返すように指示されている。お焚上げをごみ処理(言い過ぎではあるが)として扱い、自分のところ以外の御札は受け付けない寺社もあるが、神社は良いが寺は駄目というのは初めてである。 |
|
松陰神社 参道 御神籤
御神籤を木々に結ぶのは木を傷めるとして制限するのはよくあるが、緑の御神籤は珍しい。 |
|
松陰神社 参道を戻る |