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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 表門(国指定重要文化財) |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 表門(国指定重要文化財) |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 表門(国指定重要文化財)
重要文化財 大場家住宅
この住宅は、大場家7代六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事によって完成したものであります。 大場家は、元文4年(1739)から幕末まで彦根藩の代官職を世襲したので、その役宅としても使用されていました。 江戸中期上層民家の遺構をよく保存する建物として、主屋及び表門の2棟が、昭和53年1月21日国の重要文化財に指定されました。 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 表門(国指定重要文化財)
世田谷代官屋敷
江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(二千三百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。
大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留どまり帰農していました。寛永一〇年(一六三三)、井伊家が世田谷領一五箇村(後に二〇箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。以後、明治四年(一八七一)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。
屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約七〇坪(約二三一・四四u)、茅葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 表門(国指定重要文化財) |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 表門(国指定重要文化財)
世田谷のボロ市
世田谷のボロ市は、天正六年(一五七八)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した『楽市掟書』に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、一ヶ月に六日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、十二月十五日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。 この市は、明治六年(一八七三)の太陽暦の採用によって、翌七年から旧暦の歳の市に相当する一月十五日にも開かれるようになり、また明治中期には十六日も開催の定例となった。市の名称は、正式には「市町」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などか市商品の大半を占めるようになったからである。 ボロ市は四○○年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節気意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡
表門を通り抜けた所にある広場で、代官屋敷についての説明が書かれている説明板があるが、逆光で全く読むことも、写真を撮ることもできない。 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 主屋、捕り物道具
時代劇でお馴染みの道具類で、右から突棒、刺股、袖搦みである。 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 白州跡 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 世田谷区立郷土資料館 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 主屋前の並木 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 主屋前の並木
奥に表門が見える。 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 物産、土産物店 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡 物産、土産物店 |
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ボロ市(ボロ市通り) 世田谷代官屋敷跡からボロ市通りに戻る |