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城山通り 東急世田谷線 宮の坂駅
豪徳寺を出て城山通りを西進し、世田谷線の宮の坂駅の踏切を渡る。 |
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城山通り 世田谷八幡宮
宮の坂駅のすぐ先の右手にある神社で、大きな鳥居が目に付く。
世田谷八幡宮
この神社は、源義家が奥州の内乱をとりしずめた記念として建てたとつたえられる。その後、天正一五年(一五八七)に世田谷城主の吉良頼康が、新しく建てた。
宮坂八幡、宇佐八幡ともよばれ、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后をまつる。社殿は、文化一〇年(一八一三)の建築で現在の社殿の中におさめてある。 昔から行われている秋祭の奉納角力は有名である。 |
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城山通り 世田谷八幡宮 |
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城山通り 世田谷八幡宮 案内
御祭神 応神天皇(誉田別命) 仲哀天皇 神功皇后
鎮座地 東京都世田谷区宮坂一丁目二十六番三号
御由緒と歴史 世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第七十三代堀河天皇の寛治五年(一〇九一)、当時陸奥国(奥州)の鎮守府将軍として任ぜられた源義家が、幾多の苦戦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した後三年の役(一〇八七〜九四)の頃です。 義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在することとなりました。もとより敬神の念を厚くもつ義冢は、今度の戦勝は日頃氏神(守神)として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、豊前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申し上げ盛大なる勧請報賽・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事は有名であり、現在でも奉納神事として伝えられています。 その後の八幡様は当社に残る棟扎によると「当社 八幡宮建立大檀那源朝臣頼貞 天文十五年丙午八月二十日建立、十二月二十日癸卯御遷宮」とあり、杓四百数十年前の第百五代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼貞・頼康が社殿を修築造営し、またこの時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀(二尺三寸)一振を寄進したと云われています。 このように当社八幡様は吉良家の祈願所として、神職はその当時の家臣一家老職大場家の一分家たる大場氏により祭典が行われてきましたが、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東討伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に滅んてしまいました。 その翌年の天正十九年(一五九一)に江戸城に入城した徳川家康も、源氏の出身であり、その氏神八幡神を崇敬し、当社に社領として十一石を寄進しました。以来徳川代々の将軍は、朱印地として社領十一石を寄進する習わしとなりました。 明治維新後の八幡様は、明治五年に世田谷の総鎮守として郷社宇佐神社となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めましたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、社名も朱印状などの丈献により元来の世田谷八幡宮と復元愎元されました。 昭扣三十九年五月に社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人達に厚く信仰されています。 |
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城山通り 世田谷八幡宮 参道の坂 |
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城山通り 世田谷八幡宮 奉納相撲の土俵
参道の階段の右手に見える。 |
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城山通り 世田谷八幡宮 社殿 |
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城山通り 世田谷八幡宮 社殿 熱中症計は注意
現在時刻は13:55で、熱中症計の温度は23.5℃、湿度は65%である。
歩き始めて3時間10分で、少し汗をかいてきたかな、という感じである。 |
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城山通り 宮坂駅前交差点で左折
宮の坂駅手前の宮坂駅前交差点で左折、世田谷八幡宮の境内沿いに坂を上る。 |
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世田谷八幡宮の境内沿いに坂を上る |
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東急世田谷線の線路沿いに北上 |
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突き当りで右折、踏切を渡って左折 |
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豪徳寺商店街を北上 |
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豪徳寺商店街を北上
三叉路を左に進む。 |
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豪徳寺商店街を北上 |
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小田急 小田原線 豪徳寺駅 |