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JR 総武線 亀戸駅
亀戸駅〜亀戸香取神社〜普門院(毘沙門天)〜亀戸天神社〜太平四丁目交差点〜押上駅前交差点〜東京スカイツリー〜言問通り〜言問橋西交差点〜馬道交差点〜浅草寺〜浅草駅
【撮影記録】
平成26年 1月 14日 晴れ
10:35〜13:10 10,500歩(概算 7.4km 地図上 6.7km)
亀戸天神から久しぶりに東京スカイツリーを経て、言問橋から二天門、浅草寺のコースを歩いた。
朝起きた時はどんよりとした曇り空だったが、歩き始めた頃には快晴に近い晴天となった。亀戸の梅屋敷は休館日のため立ち入れなかった。いつもは亀戸天神から亀戸駅に向かうが、今回は逆のせいか気が付かなかった所(亀戸香取神社)とか、亀戸七福神の参拝客につられて普門院(毘沙門天)に寄ったりした。
東京スカイツリーのあの熱気はどこに行ったのか、と思うほど人気は少なかった。 |
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亀戸駅北口交差点で右折、亀戸十三間通り(明治通り)へ |
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亀戸十三間通り(明治通り)を北上 |
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亀戸十三間通り(明治通り 亀戸四丁目交差点で左折、亀戸天神通り(蔵前橋通り)へ |
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亀戸十三間通り(明治通り 亀戸四丁目交差点 亀戸梅屋敷
江戸時代、亀戸には呉服商・伊勢屋(いせや)彦右衛門(ひこうえもん)の別荘「清香庵(せいきょうあん)」があり、その庭には見事な梅の木々が生えていました。
定休日は毎週月曜で、祝日の場合は翌日である。歩いた日は火曜だが、前日が成人の日だったため休館となった。 |
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亀戸十三間通り(明治通り 亀戸四丁目交差点 亀戸梅屋敷 |
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亀戸十三間通り(明治通り 亀戸四丁目交差点 亀戸梅屋敷 |
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亀戸十三間通り(明治通り 亀戸四丁目交差点で左折、亀戸天神通り(蔵前橋通り)へ |
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亀戸十三間通り(明治通り 亀戸四丁目交差点で左折、亀戸天神通り(蔵前橋通り)へ
交差点から東京スカイツリーが見える。 |
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亀戸天神通り(蔵前橋通り) 亀戸香取神社鳥居から参道へ
総武線沿線散策など、何回も歩いているがいつも通り過ぎていたので立ち寄ることにした。 |
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亀戸香取神社 参道 本殿前の鳥居を抜けて境内へ
参道を塞ぐように長い列ができており、何事かと思ったら左のトイレの順番待ちをする中高年おばさん団体だった。どいてもらって境内に入ったが、帰る時はもっと長くなり、井戸端会議で注意しないと退こうともしなかった。
自分さえ良ければ良い、というオバタリアン(死語!)は何時の世も健在である。 |
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亀戸香取神社 境内案内図 |
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亀戸香取神社 御由緒
一、御祭神
経津主神 相殿に武甕槌神・大己貴神
香取神社の御祭神経津主神は千早振る神代の昔天照大神のご命令により、鹿島大神と共に豊葦原瑞穂国(日本の国)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰がれる我国武将の祖神であります。然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座されましたことは非常に意義あることで、日本国の守護を固めた事になり、更に農業に深い関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。
故に大和朝廷におかれても殊に崇敬が篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏神」として忠誠を捧げ崇敬を尽されたのであります。 |
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亀戸香取神社 御由緒
一、御由緒
当社の創立は天智天皇四年(六六五)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因であります。
天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平げたので神思感謝の奉賽銭として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。現在でもこの故事により勝矢祭が五月五日(武者行列)に執り行なわれております。
以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、御神徳が四方に及びましたので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。
元禄十年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡十二社の中にも数えられております。 |
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亀戸香取神社 御由緒
一、御神徳
前にも述べたように大神は天より国土平定に当られ、日本建国の礎を築かれた大功神であり、歴代の天皇をはじめ源頼朝・徳川家康・秀忠・頼房等、武将の篤い崇敬を受け、又塚原卜伝や千葉周作をはじめ多くの剣豪の崇敬も篤く、現代でも武道修業の人々は大神を祖神と崇めております。
最近ではスポーツ振興の神とて広く氏子内外を問わず参拝されております。
その他交通安全・家内安全・厄除・開運祈願等御神徳の随に毎日このような趣旨により御祈願を受け付けて御奉仕いたしております。
スポーツの神
香取神社へようこそ。スポーツで勝つ。病気に勝つ。自分に勝つ。
勝守り 一体 五〇〇円
勝運袋
境内の白い小石は、白星・勝星と云われ、縁起の良い白い石です。洗い清めて社務所にあります。
勝運袋(五百円)に一つ入れて社殿でご祈祷ください。 |
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亀戸香取神社 社殿、神楽殿
正面に社殿があり、右に神楽殿がある。 |
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亀戸香取神社 亀戸大根之碑
このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861〜64)の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。
当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く冴えた肌の大根づくりに大変適していました。
亀戸大根は、根が30p程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。
明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし、宅地化が進んだ大正時代の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。
秋から冬にかけてタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。 |
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亀戸香取神社 亀戸大根之碑 |
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亀戸香取神社 紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅
道祖神祭図は、本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦三三.六cm、横四〇.六cm。表装は
道祖神祭図は、本紙を掛軸に表装したものです。本紙は縦三三.六cm、横四〇.六cm。表装は縦一五八.〇cm、横四七.〇cmです。
香取神社の道祖神祭は、毎年正月一四日、氏子の子供たちが宝船をかつぎ、亀戸から両国の辺りまで練り歩いたもので、享保のころから始まり、明治初期まで続きました。その光景は『江戸名所図会』の挿し絵に載せられ、『東都歳時記』にも記載されています。本図は人物や宝船を墨で描き、朱、青で淡彩を施しています。作者は浮世絵師・歌川広重(一七九七〜一八五八)で、嘉永五年(一八五二)以降、広重の円熟期に描かれた作品とみられます。
本図は、江戸時代の香取神社の古い行事の様子をよく伝え、作者が著名な広重であること、また戦災を免れて区内に伝えられたことなどから、貴重な作品といえます。 |
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亀戸香取神社 社殿
社殿の左に中年男性が何かを拾っていた。始めは落し物を探しているのかと思ったが、勝運袋の白い石を探していた。砂利は直径5mmほどの黒っぽいもので、白い石があるのだろうか、と思ったが、結構見つけたようである。 |
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亀戸香取神社 境内の白い石の由緒
勝ち運の白星(境内の白石)は一回の参拝にひとつにてご利益がございます。
勝運袋
境内の白い小石は、白星・勝星といわれ、縁起の良い白い石です。一つ拾って、手水舎で洗い清め、勝運袋に入れ社殿でご祈願ください。
勝運袋(五百円)社務所にあります。
スポーツの神
香取神社へよくお参り下さいました。スポーツで勝、病気に勝、自分に勝 勝守り受付けにもあります。一体 五〇〇円
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亀戸香取神社 境内 末社 |
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亀戸香取神社 参道から出て右折、亀戸天神通り(蔵前橋通り)へ |
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亀戸天神通り(蔵前橋通り) 亀戸天神通り交差点で右折 |
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亀戸天神通り(蔵前橋通り) 亀戸天神通り交差点で右折
交差点角に亀戸七福神 毘沙門天(普門院)の案内があり、立ち寄ることにした。 |
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亀戸七福神 毘沙門天(普門院)
由来
普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
江戸時代の地誌『絵本江戸土産』には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。
亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。 |
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亀戸七福神 毘沙門天(普門院)
亀戸七福神の幟、案内などどこにもなく、たまたま居た七福神巡りの中年女性グループがいなければ迷うところだった。 |
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亀戸七福神 毘沙門天(普門院) 毘沙門堂
本堂手前左の墓地入口前にひっそりと毘沙門堂があった。他の七福神もそうだが、小さな末社が七福神のことが多いので驚きはしないが、中年女性グループは華やかなイメージを考えていたらしく、不平たらたらであった。 |
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亀戸天神通り(蔵前橋通り) 木彫の鷽(うそ)の歩道柱
亀戸天神通り(蔵前橋通り)の歩道柱には、所々に,「うそ替え神事」の木彫の鷽(うそ)を模したものがある。 |
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亀戸天神通り(蔵前橋通り) 普門院入口案内図
中央の現在地は普門院への入口であり、北が下で東が左である。 |