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新春の上野公園散策(摺鉢山古墳~清水観音堂~西郷さん銅像)

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上野公園 さくら通り 五条天神前で演技するセブンアーティスト 上野公園 さくら通り 五条天神前で演技するセブンアーティスト 

上野公園内で大道芸などの演技をするためには東京都の許可が必要であり、セブンアーティストとして小松宮像前、摺鉢山、西郷像などで決められた時間帯で演技することが出来る。

演目は様々であるが、ここではジャグリングだった。たまにではあるが、演技に対し外国人がチップを置いていくことがあるが、日本人はそのような習慣がないせいか見ているだけである。
上野公園 セブンアーティスト演技前から直進、摺鉢山古墳へ 上野公園 セブンアーティスト演技前から直進、摺鉢山古墳へ 
上野公園 セブンアーティスト演技前から直進、摺鉢山古墳へ 上野公園 セブンアーティスト演技前から直進、摺鉢山古墳へ 
 上野公園 セブンアーティスト演技前 界隈案内図 上野公園 セブンアーティスト演技前 界隈案内図 

北が左で、右の青いブロックは不忍池である。
上野公園 セブンアーティスト演技前から直進、摺鉢山古墳 上野公園 セブンアーティスト演技前から直進、摺鉢山古墳 

 摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているるところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などか出土し、約千五百年前の前方後円形式の古噴と考えられている。
 現存長七十m、後円部径四十三m、前方部幅は最大部で二十三m。後円部の道路との比高は五mである。
 丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地であった。
 五條天神の創立年代は不明であるが、尭恵法師は『北国紀行』のなかで、文明十九年(一四八七)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際、
 契きて たれかは春の
  初草に 忍びの岡の 露の下萌
と、うたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。
 清水観音堂は、寛永八年(一六三一)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、元禄年間(一六八八~一七〇三)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。
上野公園 突き当りの日本芸術院会館前で右折、遊歩道を南下 上野公園 突き当りの日本芸術院会館前で右折、遊歩道を南下 
 上野公園 遊歩道を南下 天海僧正毛髪塔 上野公園 遊歩道を南下 天海僧正毛髪塔 

遊歩道を南下していると、木立の中にひっそりと遺構があり、立ち寄ったが初めて天海僧正毛髪塔を見た。
 上野公園 遊歩道を南下 天海僧正毛髪塔 上野公園 遊歩道を南下 天海僧正毛髪塔 
 上野公園 遊歩道を南下 天海僧正毛髪塔 上野公園 遊歩道を南下 天海僧正毛髪塔 

天海僧正毛髪塔(都指定旧跡)

天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師という。
 天文五年(一五三六)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれた。十一歳で出家、十四歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。元和二年(一六一六)家康が没すると、
その神格化にあたり権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建をを進言し、寛永二年(一六二五)に寛永寺を創建した。 寛永二十年(一六四三)に子院の本覚院にて一〇八歳で示寂。遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。
 上野公園 遊歩道を南下 天海僧正毛髪塔 上野公園 遊歩道を南下 天海僧正毛髪塔 
上野公園 清水観音堂に向かうため右折、遊歩道を西進 上野公園 清水観音堂に向かうため右折、遊歩道を西進 
上野公園 清水観音堂 上野公園 清水観音堂 
上野公園 清水観音堂前 博士王仁碑 上野公園 清水観音堂前 博士王仁碑 

清水観音堂前の広場に建つが、王仁はさして有名な人ではなく、日本史でもサラッと出てくるだけである。

最初中央の碑の「王仁」を見た時、なぜここに碑が、と思った。天台宗に関係があるとも聞いておらず、来朝したと言われる応神天皇は母が三韓征伐の神功皇后で、古墳時代の人である。
大きな碑なので立ち寄る人はいるが、すぐ立ち去っていた。
上野公園 清水観音堂前 博士王仁碑 上野公園 清水観音堂前 博士王仁碑 

博士王仁碑

 「古事記」などによると、王仁博士は古墳時代前半に百済国から渡来し、「論語」・「千字丈」を伝えた学者であり、後に帰化したとされる。また、その子孫は丈筆をもって朝廷に仕えたといわれる。
 この「博士王仁碑」二基は、王仁博士顕彰会により、昭和十五(一九四〇)年及び昭和十六(一九四一)年に建立された。
xd2115 上野公園 遊歩道を南下、彰義隊墓所 

遊歩道を南下し、鬱蒼とした木立が見えるがこれが彰義隊墓所であり、西郷さん銅像のすぐ北にある。
 上野公園 遊歩道を南下、彰義隊墓所 上野公園 遊歩道を南下、彰義隊墓所 

一五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が一日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千佳円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
 上野公園 遊歩道を南下、彰義隊墓所 上野公園 遊歩道を南下、彰義隊墓所 

彰義隊の墓(台東区有形文化財)

 江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが’南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と謾国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
 平成二年に台東区有形文化財として区民文化材台帳に登録された。
 上野公園 遊歩道を南下、彰義隊墓所 上野公園 遊歩道を南下、彰義隊墓所 

彰義隊奮戦之図

 小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実な絵と伝えられている。
上野公園 西郷さん銅像 上野公園 西郷さん銅像 

 敬天愛人を信条とする西郷隆盛の生い立ち、明治維新での活躍、西南の役での敗死などが書かれた後で、像の由来が書かれている。
 西南の役のため一時逆賊とされたが明治二十二年二月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志二万五千人の醵金を得て、明治二六年起工、同三〇年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。
 上野公園 旧町名由来案内 旧上野恩賜公園 上野公園 旧町名由来案内 旧上野恩賜公園 

旧上野恩賜公園

 江戸時代初期、この池は津軽、藤堂、堀家の屋敷あったが徳川三代将軍冢光は天海僧正に命して寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布達により公園に指定されたことから公園地となった。
 恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
 上野公園生みの親がオランダ人医師のポートワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものてある。
上野公園 階段を降り、ヨドバシカメラ前へ 上野公園 階段を降り、ヨドバシカメラ前へ 

階段には以前は似顔絵描きが大勢座り商売をしていたが、今は全くいない。



 
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