|
JR上野駅(不忍口) UENO3153(旧 聚楽台)
昭和34年から平成20年まで、ファミリーレストランの先駆けとも言われた聚楽台というレストランがあった。建物の西郷会館老朽化で閉店、平成24年に再開発されてUENO3153となったが出店されず、上野精養軒、銀座ライオンなどの飲食複合施設となった。 |
|
JR上野駅沿いに中央通りを東進 JR上野駅(不忍口) |
|
JR上野駅沿いに中央通りを東進 JR上野駅(広小路口) |
|
JR上野駅沿いに中央通りを東進 JR上野駅(正面玄関口) |
|
上野駅交差点で昭和通りを渡り、浅草通りへ
中央通りは昭和通りと合流し、上野駅交差点で横断して浅草通りに進み東進する。 |
|
浅草通りを東進 上野警察署前交差点 |
|
浅草通りを東進 下谷神社前交差点
下谷神社は寄席発祥之地の碑、正岡子規 句碑があることで有名である。
天平二年(七三〇)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永四年(一六二七)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝八年(一六八〇)に広徳寺前通り(現住の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。
本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」、「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開帳・大形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。
「下谷神社」と改称したのは明治五年(一八七ニ)である。関東大震災の後、昭和三年(一九二八)の区画整理により、東南に五十メートルほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成十二年、台束区有形文化財)。 |
|
浅草通りを東進 講道館柔道発祥の地(永昌寺) |
|
浅草通りを東進 講道館柔道発祥の地(永昌寺)
明治十五年(一八八二)、講道館柔道の創始者嘉納治五郎(一八六〇〜一九三八)が友人や門弟とともに稽古をはじめたところが、当下谷永昌寺の書院であった。
これが今日、世界各国に普及し国際的な広がりを持つ講道館柔道の発祥とされている。道場となった書院の広さは十二畳、初年の門弟は九人であった。 同年夏、当時の住職朝舜法(一八三七〜一九一四)の協力を得て、玄関脇の空地に、十二畳のバラック建て道場を新築したが、翌一六年(一八八三)神田に移った。
永昌寺は、浄土宗で永禄元年(一五五八)下谷長者町に創建、寛永十四年(一六三七)現在地に移転した。大正十二年の大震災により当時の建物は焼失している。
境内の「講道館柔道発祥之地」と刻む自然石の記念碑は、昭和四十三年十月、嘉納治五郎没後三十周年を記念し、講道館が建立した。 |
|
浅草通りを東進 稲荷町交差点
稲荷町交差点から仏壇、仏具店が並ぶが、仏壇店や本屋は日焼けを防ぐため北側に入口を設ける。しかし、理由は分からないが、本店が同じ並びにある仏壇仏具の製造販売店の翠雲堂稲荷町駅前店は入口が南である。 |
|
浅草通りを東進 稲荷町交差点
稲荷町交差点の向いには翠雲堂の稲荷町店がある。 |
|
浅草通りを東進 松が谷一丁目交差点
松が谷一丁目交差点は左衛門橋通りとの交差点である。 |
|
浅草通りを東進 菊屋橋交差点でかっぱ橋道具街通りを渡る |
|
浅草通りを東進 菊屋橋交差点でかっぱ橋道具街通りを渡る |
|
浅草通りを東進 寿四丁目交差点で国際通りを渡る |
|
浅草通りを東進 駒形一丁目交差点で左折、雷門仲通りへ |
|
雷門仲通りを北上 |
|
雷門仲通りを北上 浅草一丁目交差点で右折、雷門通りへ |
|
雷門通りを東進 |
|
雷門通りを東進 浅草寺 雷門
外国人の人気スポットで、人力車の勧誘も激しい。 |
|
雷門通りを東進 銀座線 浅草駅 |