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港の見える丘公園 フランス山地区 展望台からの入口 
季節によって定められた時刻に開閉門される。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 林間広場 愛の母子像 
昭和52年9月27日、横浜市緑区荏田町(現青葉区荏田北)に米軍機が墜落し、市民3人(母と幼い子二人)が亡くなりました。
生前に海が見たいと願っていたことから、この公園に愛の母子像の寄付を受け設置したものです。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 林間広場 愛の母子像  |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構 風車 
1896(明治29)年にフランス領事館とその官邸が建設された時、このフランス山には井戸水を汲み揚げるための風車が設置されました。風車が設置されたのは、レンガ造り井戸の遺構が残されている場所です。
残念ながら、フランス領事公邸で使用されていた風車の形は、写真などの資料が残されていないため判りません。しかし、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真から、多翼型の風車であったろうと思われます。なおフランス山の風車は、フランスに残されている資料から、1909(明治42)年頃までは存在していたようです。
今回、フランス山の公園整備に際し、かつてのフランス山をしのぶモニュメントとして、多翼型の風車を設置しました。風車の色は、フランス国旗の色にちなんでトリコロール(青・白・赤)に塗り分けられています。また、風車が回ると水を汲み揚げるようになっています。
今回の公園整備に伴う工事の際に、風車のレンガ造り基礎が井戸の北側斜面に2基、南側にやや小さめの基礎が2基の合計4基です。北側の基礎は、斜面の基礎に支障をきたすため、掘り上げて新たに設置した風車を中心に、元の位置に合わせて展示しました。また南側の1基はそのままで、もう1基は園路の下に現状保存しています。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構 風車  |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構 
1862年9月(文久2年8月)に起きた生麦事件など、攘夷派による外国人殺傷事件が相次いだため、フランスは、横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的に、イギリスとともに軍隊の駐屯を決定しました。 1863年6月下旬(文久3年5月)フランス海兵隊が横浜に到着し、山手居留地185番に駐屯を開始、7月、8月頃、駐屯軍兵舎が186番に3棟建設されました。1875(明治8)年3月に撤退するまでの約12年間、部隊の交替をくり返しながら駐屯を続けました。これがフランス山と呼ばれるようになった由来です。 撤退により兵舎が不要となったので、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡しました。横浜駐在のフランス領事はここに領事館を建設する提案をしましたか、なかなか実現しないでいたところ、1885(明治18)年になってフランス人居留民の有志らが領事館建設の嘆願書を提出しました。このことがきっかけとなって計画が具体化し、1894(明治27)年にフランス人建築家サルダの設計で、領事館と領事官邸の新築工事が始まりました。1896(明治29)年3月、山手185番(フランス山下方)に領事館、12月に山手186番(フランス山上方)に領事官邸が完成します。領事官邸には、風車の付いた井戸が掘られました。 1923(大正12)年、関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊します、震災後、領事館は仮設の建物を使用していましたが、官邸は、1930(昭和5)年、スイス人建築家ヒンデルの設計で山手186番に再建されました。その官邸も、戦後まもない1947(昭和22)年には火災で焼失してしまいます。現存している遺構は、その際に焼け残った1階部分です。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構 
震災後のフランス領事官邸(1)
1923(大正12)年9月1日の関東大震災によって領事官邸は倒壊したため、マックス・ヒンデルの設計で1930(昭和5)年に新しい領事官邸が建てられました。1階部分はコンクリート造、2、3階部分は木造の3階建ての建物でした。一部に4階建てに相当する塔屋があり、また大きい屋根窓が設けられていることから、4階に相当する屋根裏部屋があったものと推測されます。天井高は3m、建築面積は222.5平方メートル、建設費用は53万3,000フランと伝えられています。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構 
震災後のフランス領事官邸(2)
1階部分は.14.5mx14mの正方形に近い矩形をしており、東隅に設けられた主玄関は、幅5.5m、奥行2mのポーチとその奥の5.5mx5mのホールからなります。ポーチは擬石積みでで仕上げられており、ホールには壁と床のタイル張りが残されています。 西側には.同じく擬石積みの仕上げが施された脇玄関と思われる開口部があり、そのかたわらに便所および2階に通じる階段があります。その他の部屋は、使用人の部屋や厨房等と思われます。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構  |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構 
フランス山の歴史
1862年9月(文久2年8月)に起きた生麦事件など、攘夷派による外国人殺傷事件が相次いだため、フランスは、横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防備を目的に、イギリスとともに軍隊の駐屯を決定しました。
1863年6月下旬(文久3年5月)フランス海兵隊が横浜に到着し、山手居留地185番に駐屯を開始、7月、8月頃、駐屯軍兵舎か186番に3棟建設されました。1875(明治8)年3月に撤退するまでの約12年間、部隊の交替をくり返しながら駐屯を続けました。これがフランス山と呼ばれるようになった由来です。
撤退により兵舎が不要となったので、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡しました。横浜駐在のフランス領事はここに領事館を建設する提案をしましたが、なかなか実現しないでいたところ、1885(明治18)年になってフランス人居留民の有志らが領事館建設の請願書を提出しました。このことがきっかけとなって計画が具体化し、1894(明治27)年にフランス人建築家サルタの設計で、領事館と領事官邸の新築工事が始まりました。1896(明治29)年3月、山手185番(フランス山下方)に領事館、12月に山手186番(フランス山上方)に領事官邸が完成します。領事官邸には、風車の付いた井戸が掘られました。
1923 (大正12)年、関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊します。震災後、領事館は仮設の建物を使用していましたが、官邸は、1930(昭和5)年、スイス人建築家ヒンテルの設計で山手186番に再建されました。その官邸も、戦後まもない1947(昭和22)年には火災で消失してしまいます。現存している遺構は、その際に焼け残った1階部分です。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構 
フランス山の歴史年表
文久 2年(1862)生麦事件おこる
文久 3年(1863)フランス海兵隊横浜に到着、山手186番に駐屯
明治 8年(1875)フランス軍撤退
明治18年(1885)フランス人居留民の有志、領事館建設の請願書提出
明治27年(1894)領事館・領事官邸新築工事着手
明治29年(1896)3月領事館完成 12月領事官邸完成
大正12年(1923)関東大震災により領事館・領事官邸倒壊
昭和 5年(1930)領事官邸再建
昭和22年(1947)領事官邸、不審火で焼失
昭和46年(1971)横浜市、フランス政府から山手1 85 ・ 186番の土地を購入
昭和47年(1972)港の見える丘公園フランス山地区として整備、開園 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構 
仏軍駐屯時代のフランス山
フランス軍のキャンプは山手186番にあり、3,042坪の敷地に、3棟の建物が日本側の費用で造営されました。1棟は建坪90坪、もう1棟は建坪15坪、煮炊所が12.5坪で、ほかに当初からの土蔵1棟1,555坪がありました。初期の駐屯兵は、陸軍部隊20名にはじまり、その後、海軍追加部隊などが加わり、併せて300名以上が横浜に駐屯しました。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構 
フランス領事館時代
震災前のフランス領事官邸
1894(明治27)年、フランス人建築家サルダの設計により建築に着手、1896(明治29)年12月に完成しました。計画図によると、煉瓦造2階建で、建坪およそ24mx18mの規模でしたが、関東大震災で倒壊しました。跡地からは建物に使用されたと思われるジェラール瓦、煉瓦などのほか、同時に建設された揚水用風車の基礎が掘り出されました。官邸建設当時はまだ山手に上水道が敷設されていなかったため、井戸を掘り風車で水を汲み揚げていました。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 旧フランス領事官邸遺構  |
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港の見える丘公園 フランス山地区 庭園広場 
旧フランス領事官邸遺構の先には庭園広場があり、その先には急な階段があってバルタール・パビリオン(広場)に向かう。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 庭園広場からバルタール・パビリオン(広場)へ 
雨天時には足元注意の掲示があるほど急な階段である。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 庭園広場からバルタール・パビリオン(広場)へ 
庭園広場からの階段を下り、左右に分かれる階段をさらに下る。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 バルタール・パビリオン(広場)  |
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港の見える丘公園 フランス山地区 バルタール・パビリオン(広場)  |
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港の見える丘公園 フランス山地区 バルタール・パビリオン(広場) 
沿革 パリの中央市場は、12世紀以来パリ中心部のレ・ア−ル(LES HALLES)地区に存在していました。19世紀後半ナポレオン三世時代にオスマン市長が建築家バルタールに設計を依頼し新たな姿にしたものがこの建造物です。 全体は、12棟で構成され1854年〜1858年に6棟が建てられ1860年〜1866年に3棟、1886年に1棟そして最後の2棟は1935年に完成しました。 市場は、主要部分を占める地上階と倉庫である地下階部分とから成っていました。地上階の鉄骨上屋は、パリ郊外に復元されており、当公園に設置されたこの構造体は地下階部分のものとして、上部構造を支え、柱、アーチ・梁等すべて鋳鉄製で構成されている珍しいものです。 建設時期は、エッフェル塔より前であり、初期の鉄骨様式を知るうえで貴重なものであります。 |
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港の見える丘公園 フランス山地区 フランス山の記憶  |
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港の見える丘公園 フランス山地区 中村川に架かるフランス橋  |