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新大橋通り 浜離宮恩賜庭園 築地川に架かる大手門橋
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浜離宮恩賜庭園 築地川に架かる大手門橋 |
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浜離宮恩賜庭園 大手門
徳川将軍家の庭園
海水を引き入れた潮入の池と、二つの鴨場を伝え、江戸時代には、江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。承応3(1654)年、徳川将軍家の鷹狩場に、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。その後、綱重の子、綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、「浜御殿」と呼ばれるようになりました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行われ、十一代将軍家斉の時代にほぼ現在の姿の庭園が完成しました。
明治維新ののちは皇室の離宮となり、名称を「浜離宮」と変えました。関東大震災や戦災によって、御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20(1945)年11月3日、東京都に下賜され、整備ののちに昭和21(1946)年4月から「浜離宮恩賜庭園」として公開されました。その後、昭和27(1952)年11月22日に「旧浜離宮庭園」(文化財指定名称)として国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。 |
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浜離宮恩賜庭園 大手門 浜離宮恩賜庭園 沿革 |
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浜離宮恩賜庭園 大手門 浜離宮恩賜庭園 沿革
この地はもと将軍家鷹狩の場所であったが承応年間 松平綱重の別邸となり、甲府浜屋敷または海手屋敷といわれた。ついで六代将軍徳川家宣これを改めて浜御殿と改称し大いに改修を行い景観を整えた園内には、茶園、火薬所、織殿等が営まれ幕末には、石造洋館、延遼館の建設をみた。維新後、宮内省所管となり、園地を復旧し、皇室宴遊の地にあてられ、名も浜離宮と改められた。諸外国貴賓来訪の際には、延遼館はその迎賓館にあてられ明治天皇も賜宴のためしばしば本園に行幸せられ、特に明治十二年、米国前大統領グラント将軍が、わが国を訪問せられた際には親しく本園中の島茶屋において引見せられた。園は江戸時代に発達した大名庭園の代表的なものであって現存する汐入の庭の典型的なものとして貴重な文化財である。 |
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浜離宮恩賜庭園 大手門
江戸城の「出城」としての機能を果たしていたためか、大手門という名前や、立派な石垣が庭園にはふさわしくない。 |
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浜離宮恩賜庭園 大手門 浜離宮恩賜庭園 沿革
寛永の頃までは将軍家鷹狩りの場所であったが、承応3年(1654)甲府宰相綱重が埋立て別邸とし、甲府浜屋敷(海手屋敷)と呼ばれていた。その後、綱重の子家宣が6代将軍となったため公収され名も浜御殿と改められ、将軍家の慰安場、社交場として大いに利用された。
維新後宮内省所管となり、園地を整備し皇室宴遊の地にあてられ、名は浜離宮と改められた。明治2年落成した延遼館は、洋風石造建築で鹿鳴館とともに世上にしられ、迎賓館にあてられるなど由緒ある建物であったが、明治22年取りこわされた。
昭和20年11月3日東京都に下賜され、一般に開放された。江戸時代に発達した大名庭園の代表的なもので、現存する潮人りの庭として貴重なものである。昭和27年、庭園全体が、国から重要文化財として特別名勝及び特別史跡の指定をうけている。 |
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浜離宮恩賜庭園 案内図
現在地は左上角の大手門である。ここから反時計回りで見物する。図では左端を下に下り左折、汐留川がある下端(南縁)を右に進んで右上角に進んで左折する。最後は築地川沿いの上端(北縁)を歩いて大手門に戻る。 |
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浜離宮恩賜庭園 大手門口から延遼館跡に向かう |
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浜離宮恩賜庭園 延遼館跡
広々とした芝生広場であるが、西側(写真の右側)は庭園の整備中で立入禁止となっている。 |
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浜離宮恩賜庭園 延遼館跡
延遼館とは、外国要人の迎賓館として明治2年(1869) 5月に落成したわが国最初の洋風石造建築物(1,381u・418坪)でした。明治12年7月、グラント将軍(第18代アメリカ大統領)夫妻一行が世界周遊の途中に来日の際は、約2ヶ月間滞在して、盛大な歓迎を受けました。
その後も、多くの外国貴賓を迎えた由緒ある建物でしたが、明治20年の地震による損壊が激しいため、明治22年に取り壊されました。 |
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浜離宮恩賜庭園 延遼館跡 |
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浜離宮恩賜庭園 内堀
延遼館跡の芝生の東側の遊歩道の左に内堀がある。 |
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浜離宮恩賜庭園 内堀
ここは浜離宮恩賜庭園で「内堀」と呼ばれています。
江戸時代、京都や大阪あるいは長崎などから船で運ばれてきた物資を江戸城に入れるための中継施設でした。
現在、お花畑や広場になっているあたりには「籾倉」と呼ばれる倉が建てられていました。また、内堀の護岸は間知石を用いた石積みでつくられ、荷揚げ用の階段も設けられていました。
工事のときに行われた発据調査では、現状の石積みの背後に埋もれた船着場や、木製の水道管の樋管と思われる構造物などの江戸時代の様々な遺構が発見されました。平成21年に行われた修復工事では、2か所の荷掲げ用の階段も復元しました。 |
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浜離宮恩賜庭園 内堀 |
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浜離宮恩賜庭園 延遼館跡の芝生沿いに南下
右には汐留シオサイトの高層ビルが林立する。 |
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浜離宮恩賜庭園 突き当りで右折、野外卓広場へ |
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浜離宮恩賜庭園 突き当りで右折、野外卓広場へ |
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浜離宮恩賜庭園 野外卓広場 突き当りで右折、新銭座鴨場へ
野外卓広場は名前の通り木立の間に木製のテーブルと椅子が並べられた広場である。 |
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浜離宮恩賜庭園 突き当りで右折、新銭座鴨場へ |
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浜離宮恩賜庭園 突き当りで右折、新銭座鴨場へ
突き当りの左の下にひっそりと目立たぬ鴨塚の碑の説明板がある。 |
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浜離宮恩賜庭園 新銭座鴨場 鴨塚の碑 |
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浜離宮恩賜庭園 新銭座鴨場 鴨塚の碑
本園には、庚申堂鴨場と新銭座鴨場があります。鴨場とは、古くから大名の別荘等に設けられた遊猟施設です。安永7年(1778)10代将軍徳川家治の時代から昭和19年まで、二つの鴨場では、鴨猟が盛んに行われました。この碑は、昭和10年(1935)宮内省の鷹匠 戸部与四郎が、二つの鴨場で捕獲された鴨たちを供養するために建てたものです。 |
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浜離宮恩賜庭園 新銭座鴨場 |
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浜離宮恩賜庭園 新銭座鴨場
「鴨場」とは、古くから大名の別荘地などに設けられていた野生の鴨などの水鳥を遊猟するための場所のことです。現在、鴨場が見られるのは全国で5箇所しかないとのことですが、そのうちの1箇所が浜離宮恩賜庭園の鴨場です。
鴨場は、飛来した水鳥が休むための島を配置した「元溜り」と呼ぶ大きな池と幾筋かの引き込み水路「引堀」からなっています。池には、獲物の水鳥たちを引堀へ導き入れてくれるよう訓練された囮の家鴨を放しておきます。周囲は約3メートルほどの高さの土手で囲み、笹や竹、常緑樹などを隙間なく植えて、人の気配を感じさせないようにし、飛来した水鳥が安心して休息できる環境を作ります。元溜りを見渡せる監視所の「大覗」から水鳥の集まり具合や風向きなどを確認し、猟を行う引堀を決めます。引堀の奥の見張りが隠れる「小覗」から、板木をたたきながらヒエやアワなどの餌を撒き、囮で引き寄せられた水鳥を、引堀の小土手から網や鷹を使って捕る猟を行っていました。
ここ「新銭座鴨場」は、寛政3年(1791年)に築造され、その後幾度かの改修を経て現存の形になっています。「新銭座鴨場」の名称は、この鴨場の西南側の地名が新銭座町であったことに由来します。 |
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浜離宮恩賜庭園 新銭座鴨場 鴨猟の方法
長い案内文を読むよりはるかに分かりやすい図である。 |
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浜離宮恩賜庭園 新銭座鴨場 鴨猟で使う叉手網 |
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浜離宮恩賜庭園 新銭座鴨場 小覗 |