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清澄通りを北上 首都高9号深川線 |
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清澄通りを北上 深川一丁目交差点で葛西橋通りを渡る |
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清澄通りを北上 深川一丁目交差点で葛西橋通りを渡る |
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清澄通りを北上 深川一丁目交差点 周辺案内
右が北で、現在地は中央赤字の深川一丁目交差点である。
交差点から右下方向に進み、仙台堀川を渡った右中央の緑の一画は清澄庭園である。 |
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清澄通りを北上 法乗院(えんま堂)
普段は閑散としているが、参拝する人が次々に訪れる。富岡八幡宮や深川不動尊を参拝した人がついでに来るのかと思ったら、深川七福神巡りのパンフレットや朱印帳を持っている。
法乗院(えんま堂)は閻魔大王像で有名だが、深川七福神とは関係なく、福禄寿の心行寺と隣接しているため間違えた、という声が聞こえる。 |
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清澄通りを北上 法乗院(えんま堂)
法乗院(深川えんま堂)は、1629(寛永6)年創業という真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の寺。えんま堂(ゑんま堂)には日本最大の閻魔(えんま)大王座像が安置され、本堂1階には江戸時代に描かれた『地獄極楽絵』が展示されています。境内には「日本三大仇討ち」で知られる曽我五郎の足跡石があるなど見どころも豊富です。
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清澄通りを北上 法乗院(えんま堂) えんま堂 |
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清澄通りを北上 法乗院(えんま堂) えんま堂
何度も訪れているが、普段は網戸で遮られている閻魔大王像であるが、正月ということなのか、全開されてきれいに見ることができる。 |
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清澄通りを北上 法乗院(えんま堂) 本堂 |
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清澄通りを北上 法乗院(えんま堂) 本堂
中央の本尊の周囲に地獄極楽図画展示され、入口には地獄極楽の内容を紹介するビデオが放映されている。 |
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清澄通りを北上 心行寺(福禄寿)
心行寺は雙修山養源院と号し、開山は光蓮社団誉一露屋道で、養源院は開基です。元和2年(1616)に、八丁堀に創建され、寛永10年(1633)現在地に移りました。
養源院は岩国藩主吉川広嘉(1621〜1680)の妻で、承応3年(1654)に没しました。広嘉は岩国藩主として二代目で、延宝元年(1673)には、錦帯橋を架橋しています。
深川七福神(福禄寿)の一つとして親しまれています。 |
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清澄通りを北上 心行寺(福禄寿)
心行寺も何回も来ているが、岩国藩の吉川氏と関係ある寺、との認識であり、深川七福神の一つとは知らなかった。 |
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清澄通りを北上 心行寺(福禄寿) |
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清澄通りを北上 心行寺(福禄寿) 本堂 |
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清澄通りを北上 心行寺(福禄寿) 六角堂 福禄寿 |
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清澄通りを北上 心行寺(福禄寿) 六角堂 福禄寿 |
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清澄通りを北上 心行寺(福禄寿) 六角堂 福禄寿
福禄寿は、星宿の神、南十字星の化身ともいわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。
背丈が低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ長寿をつかさどる福神、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え長命と円満な人格を人々に授ける福神であります。また福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の三つの福徳を授ける福神ともいわれています。 |
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清澄通りを北上 心行寺(福禄寿)
浄土宗 心行寺
双修山養源院と号し、元和二年(一六一六年)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟光蓮社団誉一路屋道上人、周防岩国城主 吉川監物の室 養源院殿の発願開基による。
寛永十年(一六三三年)現在地に移転、当時境内地は、間口四十二間奥行四十二間総坪数一七六四坪、影窓院 正寿院の二末寺があった。
大正十二年関東大震火災の厄にかかり、昭和七年再建された本堂庫裡も同二十年戦災のため再度烏有に帰した。
現本堂は、浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味し、昭和四十三年に落慶した。
本堂両脇間に観無量寿経変相図(曼荼羅)ならびに三尊来迎図(守屋多々志画伯模写)がある。
史 跡
開基養源院殿墓 五重石塔 宝筐印咒塔
五世鶴屋南北墓 松本交山墓 工藤琳甫墓
悟道軒円玉墓 深川七福神福祿寿堂 |
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清澄通りを北上 仙台堀川に架かる海辺橋を渡る |
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清澄通りを北上 仙台堀川に架かる海辺橋を渡る |
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清澄通りを北上 海辺橋北詰 滝沢馬琴誕生の地
滝沢馬琴の代表作である南総里見八犬伝、全106冊を表現したモニュメントである。 |
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清澄通りを北上 海辺橋北詰 滝沢馬琴誕生の地
江戸時代後期の小説家。明和四(一七六七)年六月九日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元(一八四八)年十一月六日、八十二歳で病没しました、名は興邦、曲亭馬琴・著作堂主人などと号しました。
安永四(一七七五)年、九歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、同九(一七八〇)年、十四歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、寛政二(一七九〇)年山東京伝のもとに入門しました。翌年正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙「尽用而二分狂言」を発表しました。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。
天保五(一八三四)年ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けました。
読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約四七〇種にものぼる著作を残しています。 |
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清澄通りを北上 海辺橋北詰 深川ふれあいセンター
深川ふれあいセンターの前に滝沢馬琴誕生の地碑が設置されている。 |