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清澄庭園〜深川稲荷神社(布袋尊)〜萬年橋

【関連サイト】   東京の名園 清澄庭園・清澄公園

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 清澄通り 清澄庭園の案内柱に従い左折、中村学園通りへ 清澄通り 清澄庭園の案内柱に従い左折、中村学園通りへ 

清澄庭園は清澄通り沿いに入口はなく、深川江戸資料館通りの斜め向かいの清澄庭園の案内柱に従い左折、中村学園通りに進む。
 清澄通り 清澄庭園の案内柱に従い左折、中村学園通りへ 清澄通り 清澄庭園の案内柱に従い左折、中村学園通りへ 
清澄庭園の北辺沿いに中村学園通りを西進 清澄庭園の北辺沿いに中村学園通りを西進 
中村学園通り 本誓寺 中村学園通り 本誓寺 

本誓寺は、清澄庭園の入口の向かい側にある。寺の中で入れる所には村田春海の墓は無かった。
中村学園通り 本誓寺 村田春海の墓 中村学園通り 本誓寺 村田春海の墓 
中村学園通り 本誓寺 村田春海の墓 中村学園通り 本誓寺 村田春海の墓 

村田春海墓

 江戸時代中期の国学者で歌人。日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として延享三年(一七四六)に生まれた。父春道、兄春郷とともに賀茂真淵の門人で著名な国学者であった。春海は国学者としては仮名遣いや五十音の研究に造詣が深く、歌人としては加藤千陰とともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられた。門人に清水浜臣・小山田(高田)与清・岸本由流らがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれる。
 『琴後集』『歌かたり』『和学大概』など多数の著書がある。文化八年(一八一一)二月十三日六十六歳で死去した。墓石に楷書で平春海先生墓とある。
中村学園通り 本誓寺 中村学園通り 本誓寺 

由来

 本誓寺は浄土宗で、当知山重願院と号します。文亀元年
(1501)小田原(神奈川県)に創建され、天正18年(1590)、小田原落城の際に焼失し、江戸桜田に移り、文禄4年(1595)幕府より八重洲河岸に寺地を拝領し再興しました。慶長11年(1606)馬喰町に転じ、明暦3年(1657)、天和2年(1682)、2度の大火に見舞われ、天和3年(1683)現在地に移りました。墓地には、江戸中期の歌人でもあり、国学者でもあった村田春海とその一族が眠っています。
中村学園通り 清澄庭園正門 中村学園通り 清澄庭園正門 

由来

 江戸時代、ここは下総國関宿藩主久世家の下屋敷でしたが、明治11年に三菱財閥の岩崎弥太郎氏が買収し、岩崎別邸として造園されました。大正12年の震災のあと比較的被害の少なかった東半分の庭園を公園として東京市に寄付しました。
 全国各地から約60種におよぶ奇岩珍石が集められ、広大な池水を囲んだ大小の島々の配置や涼亭と池のみぎわの美しさは、都内屈指の名園として知られています。
 昭和54年には、都の名勝第1号に指定されています。
中村学園通り 清澄庭園正門 中村学園通り 清澄庭園正門 

清澄庭園の正門は北西角にあり、この交差点の西側は清澄公園、向いの北西には中村学園の中学校・高等学校がある。
中村学園通り 清澄庭園正門 中村学園通り 清澄庭園正門 

清澄庭園を見物すると時間がかかるため、今回は割愛した。

江戸時代の豪商紀伊国屋文左衛門の別邸と言われ、下総国関宿の城主久世大和守の下屋敷を経て、三菱財閥の岩崎彌太郎が明治13年(1880年)に深川親睦園として開園した。
岩崎彌太郎の死後、弟の彌之助が隅田川の水を引き入れ大泉水を作ったり、各地から取り寄せた奇岩名石を配し、明治24年(1891年)に庭園として完成させた。しかし、関東大震災で大きな被害を受けた。関東大震災で庭園は大被害を受けたが、その一方で避難場所としての役割を果たした。 岩崎彌太郎の嗣子久彌は、この機能に注視し、被害の少ない 深川親睦園の東半分を東京市に寄付した。東京市は整備し、昭和7年(1932年)に 清澄庭園として開園した。更に昭和48年に庭園の西の隣接地を買収し、昭和52年に都立公園として清澄公園が開園した。
中村学園通り 清澄庭園正門前 中村中学校・高等学校角で右折 中村学園通り 清澄庭園正門前 中村中学校・高等学校角で右折 

中村学園は清澄庭園の正門前にある小規模な学校で、ELTボーカルの持田香織は卒業生である。
中村学園北交差点で清洲橋通りを渡り直進 中村学園北交差点で清洲橋通りを渡り直進 

交差点を渡った所に煉瓦色の目立つビルがあり、気になって直進した。
清澄2丁目 相撲部屋 錣山部屋 清澄2丁目 相撲部屋 錣山部屋 

清洲橋通りと小名木川、清澄通りと隅田川に囲まれた一画は相撲部屋が集中しており、親方の交代で部屋名が変わっていたり、廃止されたりしているので分からなくなることもある。

現在の錣山親方は第20代で、美男で知られた元関脇寺尾である。
清澄2丁目 直進して深川稲荷神社(布袋尊)へ 清澄2丁目 直進して深川稲荷神社(布袋尊)へ 

錣山部屋の先に深川稲荷神社(布袋尊)が見え、参拝する人が順番待ちするのが見える。
清澄2丁目 直進して深川稲荷神社(布袋尊)へ 清澄2丁目 直進して深川稲荷神社(布袋尊)へ 

どこの部屋の力士か分からないが、ジャージなど気楽な格好で出歩いている。

筆者は身長178cmだが、若い力士は体重はともかく背は低く、意外に思う。尤も今話題の貴乃花の兄である3代目若乃花は、現役時代の身長が178cmだった。
清澄2丁目 深川稲荷神社(布袋尊) 清澄2丁目 深川稲荷神社(布袋尊) 

明治百年記念

深川稲荷神社は祭神宇賀魂命にて 寛永七年の創立にして当町会の地域が古い町であることを示している 大正十二年の大震災後の区画整理により町名が一変した
清住町西大工町伊勢崎町の各一部を合併して清住町二丁目が出来た 清住町は寛永六年弥兵衛という人が開発し弥兵衛町と称したが 元禄八年清住町と改めた 西大工町は慶長のころ海辺新田といヽ 小名木川の河港として栄えたところで舟大工が多く住んでいたので深川海辺大工町とも称されたが明治六年西大工町と改られた 伊勢崎町は元木場の一部で神田京橋の材木商の貯水場であり又川舟組の住居もあった 当町の半分は幕末まで久世大和守の屋敷であった 明治初年頃には近代郵便制度の創始者前島密が住んでいた 明治十三年岩崎弥太郎がこの地を入手して深川親睦園を造り名園とした 之が現在の清澄庭園である 大震災後当町に属する所は埋立られ市街地となった 現在三野村利左エ門が住んだ邸宅の跡である 中村学園は中村清蔵が明治三十八年小名木川畔に開校し明治時代深川に於ける女子教育の唯一の学校で大震災後当地に移転した こヽに明治百年を記念して当町の沿革を記し早くから発展してきた由緒ある町であることを伝えるものである
清澄2丁目 深川稲荷神社(布袋尊) 清澄2丁目 深川稲荷神社(布袋尊) 

左に小さな社務所があり、御朱印帳の対応をしている。
清澄2丁目 相撲部屋 尾車部屋 清澄2丁目 相撲部屋 尾車部屋 

深川稲荷神社のすぐ先の交差点で左折したら立派なビルが見えた。相撲部屋の名前を記した看板が見当たらなかったが、玄関に初場所のポスターが張ってあり、帰宅後調べたら尾車部屋だった。

現在の尾車親方は第8代で、元大関琴風である。
清澄2丁目 次の交差点で左折して南下 清澄2丁目 次の交差点で左折して南下 

手持ちの地図によれば、尾車部屋の先の次の交差点で左折して南下すると何回も見ている大鵬道場であり、その近くにあった北の湖部屋の現在が知りたくて歩いていった。
清澄2丁目 大嶽部屋・大鵬道場 清澄2丁目 大嶽部屋・大鵬道場 

清洲橋通り手前の交差点角に大嶽部屋・大鵬道場がある。

名横綱大鵬が引退後に大鵬部屋を創設したが、定年に伴い娘婿の貴闘力が16代大嶽を襲名して継承、大嶽部屋と改称した。しかし、平成22年に野球賭博事件で16代が解雇されたため、元十両大竜が17代目を継承した。
尚、貴闘力は解雇後に大鵬の娘と離婚したが、そのせいかどうかは不明だが、17代大嶽継承後に3階建ての白いビルが写真のような立派な建物に建て替えられた。
清澄2丁目 元山響部屋(旧 北の湖部屋) 清澄2丁目 元山響部屋(旧 北の湖部屋) 

大嶽部屋・大鵬道場と同じ並びで西進するとかつて北の湖部屋があり、黒い稽古用のまわしが部屋の前の柵に干されていた。

平成27年11月に北の湖が急逝したため、部屋付き親方の20代山響(元幕内 巌雄)が部屋を継承、名前を山響部屋と改称した。当初施設は北の湖時代のものを使用していたが、平成29年4月に江東区東砂に移転した。
 万年橋通りに出て北上 深川萬年橋南交差点 万年橋通りに出て北上 深川萬年橋南交差点 
万年橋通りを北上 萬年橋南詰 万年橋通りを北上 萬年橋南詰 
万年橋通りを北上 萬年橋南詰 万年橋通りを北上 萬年橋南詰 

萬年橋南詰に休憩所を兼ねた四阿があり、その椅子に童謡とその踊り方を記した椅子がある。
万年橋通りを北上 小名木川に架かる萬年橋南詰 万年橋通りを北上 小名木川に架かる萬年橋南詰 
万年橋通りを北上 萬年橋北詰 界隈案内図 万年橋通りを北上 萬年橋北詰 界隈案内図 

左が北で、右側の緑の一画は清澄庭園である。



 
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