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万年橋通り 萬年橋北詰から見た清洲橋
ケルンの眺め
ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。 この場所からの眺めが一番美しいといわれています。 |
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万年橋通り 萬年橋北詰から見た清洲橋
ケルンの眺め、と言われる隅田川に架かる清洲橋だが、現在橋梁工事中である。 |
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万年橋通り 萬年橋北詰 隅田川テラス案内図
芭蕉像がある芭蕉庵史跡展望庭園に行く方法として、隅田川テラスを歩く方法もある、と案内図を見て思った。今までは万年橋通りから芭蕉稲荷を経て行ってたが、天気も良いので隅田川テラスを歩くことにした。 |
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万年橋通り 萬年橋北詰 隅田川テラス案内図
◆新小名木川水門
森下を東西に流れている小名木川は、一説には、天正18年(1590)8月、、徳川家康が江戸入府した際、行徳(千葉県)から塩を搬入するために開削した直線水路で、小名木四郎兵衛が水路の開削にあたったので、この名が付けられたと言われています。
◆江東区芭蕉記念館・芭蕉庵史跡展望公園(休館日:月曜)
松尾芭蕉は、延宝8年(1680)に日本橋から深川の草庵(芭蕉庵)に移り住み、この地から『おくのほそ道』の旅へ出かけ、多くの紀行文や名句を残した俳人です。江東区芭蕉記念館はそのゆかりの地に建てられました。館内には芭蕉遺愛と伝えられる「石の蛙」や、芭蕉をはじめ江戸時代から近現代までの俳句文学資料が随時展示されています。芭蕉像がある芭蕉庵史跡展望庭園からは、隅田川沿いの眺望を楽しめます。 |
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芭蕉庵史跡展望庭園沿いに隅田川テラスを歩く
高い堤防の上に設けられた芭蕉庵史跡展望庭園に設置されている芭蕉翁之像の上半身が見える。 |
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隅田川テラスの高台から見た新大橋
隅田川テラスから直接芭蕉庵史跡展望庭園に入ることはできず、一旦堤防上の高台に上り、そこから階段を下って向う。 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 入口
意識的か否かは分からないが、古びた庵の入口風デザインである。 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 入口
観光高礼 赤穂浪士ゆかりの道
元禄15年(1702)12月、本所吉良邸を急襲し、本懐をとげた赤穂浪±47名は、泉岳寺に向かうために竪川一之橋を渡り、絵図点線のように隅田川沿いの道を南下して永代橋を渡ったといいます。途中、小名木川の万年橋、佐賀町あたりの上之橋・中之橋・下之橋を渡って、永代橋のたもとでひと息を入れたと伝えられています。
ここから北に伸びる道は、当時の道筋が残っている場所です。
赤穂事件で、将軍綱吉は、赤穂藩主浅野長矩を即日切腹させました。綱吉の裁断については、武士道精神に反すると武士や庶民から批判されています。この道は、時代が武断政治から文治政治に移り変わろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 入口
入口横に周辺案内図が掲示されている。 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 芭蕉翁之像 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 芭蕉翁之像
芭蕉翁之像
この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風(一六四七〜七三)が描き京都の画家吉田偃武が忠実に模写した芭蕉翁之像畫により制作したものです。 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 芭蕉翁之像
この像は隅田川の上流で、庭園の入口を向いている。
この像には有名な都市伝説があり、動いて見る方向が変化する、というものである。重たい像が動くはずがない、という常識と反するからである。
これには庭園の開園時間がポイントになっている。開園は9:15〜16:30であるが、誰も入れない17時になると像が下流側を向き、22時になると元に戻ると公式のホームページで明示している。しかし、誰も近くでは見ることは出来ないので検証が困難である。 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 レリーフ
芭蕉翁略伝
天保十四年(一八四三)は、芭蕉百五十回忌に当たり、さまざまの行事があったが、幻窓湖中は編年体の芭蕉伝記『芭蕉翁略伝』を書き、西巷野巣の校合を得て、弘化二年(一八四五)に刊行した。本図はその挿絵で、茅屋に芭蕉・柴門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭缶である。 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 レリーフ
深川芭蕉庵
俳誌『ホトトギス』明治四十二年一月号に所載の図である。中材不折は幕本慶応二年(一八六六)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は十九世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、『芭蕉庵再興集』所載図の土橋と似たところがある。 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 入口 深川芭蕉庵 |
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芭蕉庵史跡展望庭園 入口 深川芭蕉庵
ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝八年(一六八〇)冬、当時桃青と号していた芭
蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の贈った芭蕉一林がよく繁茂Lて、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄七年(一六九四)に至る十五年間に、三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。
第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝八年冬から、天和二年暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ三年をここに住
み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。
櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜や涙
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
天和三年(一六八三)冬、友人素堂たちの好意で、五十三名の寄謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内
に、第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は、壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが二つ、茶碗が十個と菜刀一枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』の旅はここから旅立った。
古池や蛙とびこむ水の音
花の雲鐘は上野か浅草か
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
元禄二年(一六八九)『おくのほそ道』の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄五年五月杉風らの尽力で第
三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の趣きがあった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。
名月や門に指し来る潮頭
川上とこの川下や月の友
秋に添うて行かばや末は小松川
芭蕉庵の所在地は、元禄十年松平遠江守の屋敷となリ、翌十一年には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである。 |
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芭蕉庵史跡 芭蕉稲荷神社
芭蕉庵史跡展望庭園から万年橋通りに向かう道の左手にある。 |
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芭蕉庵史跡 芭蕉稲荷神社 |
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芭蕉庵史跡 芭蕉稲荷神社
深川芭蕉庵旧地の由来
俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名を「奥の細道」等の紀行文を著した。
ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。
しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。 |
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芭蕉庵史跡 芭蕉稲荷神社
「史跡 芭蕉庵跡」の石碑がある。 |
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地図の昭文社前で左折、万年橋通りを北上
右折すると萬年橋である。 |
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万年橋通りを北上 萬年橋北交差点 |
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万年橋通りを北上 江東区芭蕉記念館 |
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万年橋通りを北上 |
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万年橋通りを北上 江東区芭蕉記念館
芭蕉記念館
由来
新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり 松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地に、この記念館は建設されました。ここには、芭蕉研究家からの寄贈品を中心に、芭蕉関係の貴重な資料が展示されています。また、研究室(和室)は俳句や短歌を楽しむ人たちに利用されています。
庭園には、池や滝、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられ、築山にほこらと「古池や・・・・」の句碑があります。 |
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万年橋通りを北上 江東区芭蕉記念館 周辺案内図 |
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万年橋通り 新大橋交差点で右折、新大橋通りへ
左折すると新大橋で、直進すると一ツ目通りとなって両国橋と回向院の間で京葉道路に出る。直進して両国駅に出ようか、と思ったが、普段より多く歩いていることもあり、右折して森下駅で終えることとした。 |
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新大橋通り 都営新宿線 森下駅
森下駅前交差点で新大橋通りを東進する都営新宿線と、清澄通りを南北に走る都営大江戸線が交差し、森下駅で連絡する。 |
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新大橋通り 森下駅前交差点で右折、清澄通りを南下 |
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清澄通り 都営大江戸線 森下駅 |