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石浜通り 今戸神社
当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(一〇六三)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水ハ幡を鎌倉鶴ケ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。 応神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓征伐の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。 従って応神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比盗_社の御祭神にして、嘉吉元年(一四四一)こ千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。 |
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石浜通り 今戸神社
参道入口の鳥居の両脇には「えんむすび(招き猫発祥の地)」と、「沖田総司 終焉の地」の案内がある。
招き猫の起源は今戸神社と、豪徳寺があるが、豪徳寺の方が有名である。 |
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石浜通り 今戸神社 鈴なりの絵馬
円形の珍しい形をした絵馬は2種類あり、雌雄の招き猫(二匹とも右足を上げており、「千客万来」で、左足の「金運招福」ではない)と、お雛様の絵が描かれている。 |
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石浜通り 今戸神社 本殿 |
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石浜通り 今戸神社 本殿手前 沖田総司終焉之地碑、今戸焼発祥之地碑 |
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石浜通り 今戸神社 本殿手前 沖田総司終焉之地碑
沖田総司は当地に居住していた御典医松木良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて歿したと伝えられている
碑字は橘右近書
橘右近は落語家で、寄席文字で有名。 |
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石浜通り 今戸神社 本殿手前 沖田総司終焉之地碑 |
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石浜通り 今戸神社 本殿手前 今戸焼発祥之地碑
今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。地元の今戸神社にある狛犬台座に奉納した四十二名の陶工らの名が刻まれており、数多く軒を並べていたことが伺える。 今戸焼の起源は定かではないが、天正年間(一五七三〜九一)に千葉氏のの家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今戸焼」の名としては十八世紀末頃から明らかに見られ、十八世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったとも思われる。隅田川沿岸はかつて瓦を含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。江戸時代の文献である「江戸名所図会」には瓦作りの挿絵がみられ、隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれている。 近年の江戸遺跡の調査によって施釉土器、土人形や瓦等が多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器・土人形、今戸の地名を印した瓦も見られ、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されている。 関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には一軒のみが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。 |
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石浜通り 今戸神社 本殿手前 今戸焼発祥之地碑 |
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石浜通り 今戸神社 本殿 |
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石浜通り 今戸神社 本殿横 招き猫の像
お江戸は浅草 今戸で生まれ 愛され続ける 招き猫 |
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石浜通り 今戸神社 本殿横 今戸神社由来
当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(一〇六三)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水ハ幡を鎌倉鶴ケ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。 応神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓征伐の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。 従って応神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比盗_社の御祭神にして、嘉吉元年(一四四一)こ千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。 |
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石浜通り 今戸神社 鳥居横 今戸神社由来 |
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石浜通り 今戸神社 奥浅草エリアマップ |