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京葉道路から入ってすぐの交差点で左折、両国公園へ
左が両国公園で、右が墨田区率両国小学校である。 |
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両国公園前で再開発中の本所警察署跡地
Webで調べたが、跡地がどう活用されるのか不明だった。 |
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両国公園 |
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両国公園
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両国公園 熱中症計は注意
現在時刻は11:45で、温度27.0℃、湿度は62%、熱中症計は注意である。
前回の錦糸町駅北口は10:50で、温度19.0℃、湿度は27%、熱中症計は警戒だった。日差しが出てきたため、温度は急激に上がり、湿度も上がった。 |
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両国公園 勝海舟生誕の地記念碑
以前は記念碑と由来碑、それらの説明を記した案内板があるだけだった。
時期は分からないが、勝海舟幕末絵巻として立派な説明板が作られ、ほとんど訪れる人もいなかった一画も次から次へと見物客が訪れる。 |
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両国公園 勝海舟生誕の地記念碑 由来碑
勝海舟は幼名を麟太郎と言い、文政六年(一八二三)二月一三日にこの地男谷精一郎邸内で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(一八六〇)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡来した。
慶応四年(一八六八)三月一三日、高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治三十二年(一八九九)一月二十一日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去行年七十七歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。 |
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両国公園 勝海舟生誕の地記念碑 勝海舟幕末絵巻
全ての説明文を記載するのは冗長なので、ポイントになる部分のみ記載する。
勝海舟 通称「麟太郎」、本名「義邦」のち「安房」
【文政6年1月30日一明治32年1月19日】
(1823年一1899年)
海舟は本所亀沢町にあった、父の実家である、男谷家
の屋敷(現在の両国公園)で生まれました。
海舟のf曽祖父検校は元々は地方の出身で、江戸に出て成功し富を得て旗本男谷家の株を買い入れ、息子(海舟の祖父)平蔵に男谷家を継がせました。
海舟の父惟虎は跡継ぎのいない勝家の婿養子となり勝小吉と称することとなりました。勝家は三河以来の古参の幕臣でしたが、小普請組に属する無役で、いわゆる貧乏旗本でした。
若年期の海舟は貧しい生活を送りながらも、剣術、蘭学、参禅と修行に励み、この時の剣術と参禅の修行が自分の精神の土台をつくったと、後に本人が語っています。 |
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両国公園 勝海舟生誕の地記念碑 勝海舟幕末絵巻
勝海舟アメリカへ 咸臨丸の渡航
安政7年 1860年
【万延元年】(1860年)
幕府は日米通商条約の批准書交換のため遣米使節団をアメリカに派遣しました。
海舟は随行艦咸臨丸に乗船し航海を指揮、アメリカまでの航海は悪天候が続き困難を極めましたが、同乗していたアメリカ海軍大尉ブルック他、アメリカ人乗員の助力もあって、日本の船として始めて太平洋横断に成功しました。
安政7年1月13日(1860年2月4日)に品川から出帆したのち浦賀に寄り、文政7年1月19日(1860年2月日)に浦賀を出航、文政7年2月26日(1860年3月17日)にサンフランシスコに到着、約43日間で航海したとされています。
海舟はアメリカの軍事技術のみならす、政治体制や社会構成について日本との違いを確認しました。 |
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両国公園 勝海舟生誕の地記念碑 勝海舟幕末絵巻
わずか一年の夢の跡 神戸海軍操練所
元治元年 1864年
【元治元年5月開所ー翌慶応元年閉所】(1864年−1865年)
海舟は幕府の許可を得て、海軍士官の養成機関てある神戸海軍操練所を開設しました
幕府や雄藩の枠を超えた日本国海軍の創設を構想し、血筋、家柄、身分に拘泥せず、有能な人材を集めて育成することか急務と考えた海舟は、幕臣の子弟だけではなく、操練所とともに設けた私塾てある海軍塾に諸藩の脱藩浪士も受け入れました。
しかし、池田屋騒動や禁門の変なとに塾生か参加していたことから、幕府から「激徒養成」とみなされ、海舟は海軍奉公を罷免され、操練所は閉鎖されました。 |
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両国公園 勝海舟生誕の地記念碑 勝海舟幕末絵巻
勝と西郷で江戸を救う 江戸城開城
慶応4年 1868年
【慶応4年3月から4月】(1868年)
東征軍が江戸に迫る中、海舟は徳川慶喜の助命と徳川家の存続のため、東征軍参謀西郷隆盛との会談にのぞみました。この会談は3月13、14日の2回にわたって行われ、江戸城明け渡しについての交渉がなされました。
海舟は交渉が決裂した場合に備え、民衆を避難させた上で江戸市街を焼き払う焦土作戦と、慶喜を英国に亡命させる準備をしており、和戦両様の態勢を整えていました。また、海舟は英仏公使への事前工作も行っていたと推測されています。
海舟から嘆願書を受け収った隆盛は、薩長支持の英公使パークスに攻撃を反対されていることも考慮し、総攻撃中止を決断、駿府の総督府に出頭し、その後、京都二条城での三職会議に臨み、隆盛の尽力によって、海舟の嘆願がほぼ受け入れられるに至りました。
これにより、江戸城は天正18年(1590年)以来、278年間、徳川氏の居城でありましたが、ついに無血開城され、江戸市民は戦火から救われ、外国の軍事介人による内乱も防止されるに至りました。 |
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両国公園南 両四会館
両国公園の南にある両四会館に平成30年の元禄市の日程が記されたポスターが掲示されている。それによると吉良祭と義士祭が別々に開催され、吉良祭は土、日であるが、義士祭は金曜日であるが討ち入りの14日である。 |
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両国公園南 両四会館 |
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両国小学校 東側協会にある案内板
尺振八の共立学舎跡
尺振八は、天保10年(1839)、江戸に生まれた英語学者です。漢学を学んだ後、万延元年(1860)にジョン万次郎から英語を学びました。
文久元年(1861)に幕府に勤め、同年12月の第1回遣欧使節団に、通訳として福澤諭吉(慶應義塾創設者)などと共に随行し、同3年(1863)の第2回遣欧使節団にも同行しました。
振八の英語学者としての力量は、当時の日本では、天下第一流であった伝えられています。明治3年(1870)に本所相生町(現両国四丁目付近)に私塾「共立学舎」を創設し、英学教育を行いました、
この学校は、名門私塾として有名で、門下生には政治家の島田三郎や波多野伝三郎、法学博士の田口卯吉など有能な人物がいました。
その後、イギリスの哲学者ハーバート・スペンサー(当て字で斯辺撤)の教育論を翻訳した『斯氏教育論』(スペンサー氏の教育論という意味)を刊行しました。 |
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両国小学校南辺を西進
プール沿いに西進、本所松坂町の吉良邸に向かう。 |