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回向院 裏門
一見閉門されているように見えるが、錠部分にガムテープが巻かれて押せば簡単に入ることができる。 |
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回向院 裏門参道から鼠小僧供養墓に向う |
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回向院 史跡記念墓地 鼠小僧供養墓 |
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回向院 第三大隊銃手招魂牌
鼠小僧供養墓の前にあるが、由来などの案内はない。 |
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回向院 史跡記念墓地 鼠小僧供養墓 |
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回向院 史跡記念墓地 鼠小僧供養墓 |
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回向院 史跡記念墓地 鼠小僧供養墓
手前が「欠き石」で、右に
こちらの「お前立ち」をお削り下さい
との案内がある。 |
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回向院 史跡記念墓地 鼠小僧供養墓 「墨田区民俗文化財指定」
碑の正面には「天保二年八月十八日」「俗名 中村次良吉之墓」「教覚速善居士」「道一書」
裏面には「大正十五年十二月十五日 建立」
左側には「永代法養料金 金五拾圓也 細川 仁三」と刻まれている
鼠小僧は寛政九年(一七九七年)生まれの盗賊であり「武江年表」によると 天保三年(一八三二)八月十九日に浅草で処刑されている
「甲子夜話」によれば 武家屋敷にのみ押し入ったため 庶民からは義賊扱いされていると記されている
後に幕末の戯作者 河竹 黙阿弥が 権力者である大名家に自在に侵入し非権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき 演劇界においては 現在まで続く当り狂言の一つとなった
明治十二年一月の「朝野新聞」によると歌舞伎の市川一門の一人である 市川 団升が 狂言が当った礼として碑と永代供養料十円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており 施主として刻まれ 墓の横にも石灯籠を寄進している
細川 仁三とは市川 団升のことであるとみる説もある。
文学界においても 芥川 龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と三度題材に取り上げるなどとしており 虚構の鼠小僧の人気は高い
江戸時代 犯罪者には墓を作ることが禁止されていた しかし歌舞伎や狂言の成功によって 祈願対象物としての墓の必要性が生じこの供養碑が作られたと思われる
※他方 供養碑の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教覚速善居士」と刻まれているが別名「欠き石」とも呼ばれるものである
鼠小僧の墓石を欠き 財布や袂に入れておけば 金回りが良くなる あるいは持病が治るとも言われ 成就した人々の奉納した大き石は数年ごとに建て替えられ続け 現在までに数百基にも及んでいるという 発生時期は不明であるが 明治十八年(一八八五年)に初演された 河竹黙阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中で この信仰のことが触れられている
「この供養碑は変貌著しい墨田区とかかわりを示す資料でもあり そこにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」 (墨田区史より) |
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回向院 史跡記念墓地 両国物語 猫の恩返し(猫塚)
猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。
ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。
それを知った魚屋は、商家の主人 に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。
江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違つています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。 |
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回向院 史跡記念墓地 両国物語 猫の恩返し(猫塚) |
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回向院 一般墓地
手前は石造海難供養碑(墨田区登録文化財)で、その右(南側)に鼠小僧供養碑がある。 |
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回向院 史跡記念墓地 石造海難供養碑(墨田区登録文化財) |
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回向院 史跡記念墓地 石造海難供養碑(墨田区登録文化財)
回向院は、明暦の大火を契機に開かれた寺院で、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されています。それらの中に六基の海難供養碑を見ることができます。
六基のうち三基は伊勢白子(現三重県鈴鹿市)関係の碑です。江戸時代の白子港は木綿を主力商品とした伊勢商人の物資輸送の拠点として繁栄していました。 |
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回向院 史跡記念墓地 石造海難供養碑(墨田区登録文化財)
@「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔
文化十年(一八一三)に菱垣廻船十組問屋が建立。安政大地震で倒れたのち安政三年(一八五六)に再建。正面の名号は増上寺六十六世大僧正冠譽の揮毫を碑刻したものです。
A「溺死四十七人墓」
明治二年(一八六九)、函館戦争の援軍として横浜から出港した肥後熊本藩(現熊本県)のお雇い蒸気船が上総川津村(現千葉県勝浦市川津)の沖で沈没し二百六十余名が亡くなりました。そのうち、富岡文吉らが知る四十七名を供養するために建立しました。 |
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回向院 史跡記念墓地 石造海難供養碑(墨田区登録文化財)
B「南無阿弥陀仏」勢州白子参州平坂溺死者供養塔
文化十一年(一八一四)江戸大伝馬町太物問屋仲間が白子、平坂(現愛知県西尾市平坂町)二港に属する溺死者のために建立しました。名号は徳本の書です。台座部分には中村仏庵の撰書により、天明二年(一七八二)の大黒屋光太夫の一件から、文化十一年に至る海難小史が綴られています。
C「紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓」
安政四年(一八五七)四月二十日に紀州大川浦(現和歌山県和歌山市大川)の富蔵船の乗組員七名が江戸から帰郷の途上、遠州相良沖(現静岡県牧之原市)で溺死しました。彼らを供養するために、江戸の樽廻船問屋井上重次郎と酒問屋、荒荷方の荷受人たちが世話人となり建立しました。
D「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」
寛政元年(一七八九)、三河平坂の施主が建立した帆掛船型の碑です。帆の正面には犠牲者七名の戒名と俗名が、帆の裏面には白子の大黒屋光太夫と高浜の弥兵衛船の死者が一切精霊としてあわせて供養されています。
E勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔
文政八年(一八二五)の伊豆神津島(現束京都神津島村)の溺死者のために建立されました。のちに、天保、安政の遭難者名を追刻しました。 |
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回向院 動物供養
海難供養碑群の前は動物供養の一画で、中央の塔は馬頭観音堂で、小鳥供養塔、動物慰霊之碑などがある。 |
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回向院 葬儀 出棺の挨拶風景
何度も回向院を訪れているが葬儀に出会ったことは稀である。会社は分からないが、父親の会長の思い出などを語る現社長の出棺の挨拶が行われていた。 |
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回向院 |
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回向院 相撲関係石碑群〈力塚〉
墨田区と相撲の関わりは、明和五年(一七六八)九月の回向院における初めての興業にさかのぼります。以後、畿つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
天保四年(一八三三)一〇月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治一七年(一八八四)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治四二年(一九。九)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(一九一六)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
現在は相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七六年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。 |
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回向院 相撲関係石碑群〈力塚〉 |
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回向院 山門 |
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回向院 山門 |
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回向院 山門 江戸の町 回向院
明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犧牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。
そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
有縁・無縁、人・動物拡関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。 |
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回向院 山門 諸宗山回向院
明暦三年(一六五七年)江戸大火(振袖火事)に依る死者十万八千余人を弔うために建立された。
本尊 阿弥陀如来
安政大地震(一八五五年)の死者二万五千人余を初めとして、江戸府内の無縁仏、天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正十二年の関東大震災の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置されています。
江戸時代の雰囲気を伝える史跡記念墓地がある。
明暦三年 大火石塔
安政二年 大地震石塔
鼠小僧次郎吉墓
水子塚(寛政五年)松平定信建立
猫に小判の話 猫塚
勧進相撲発祥の地記念 力塚
呼び出 定火消墓 木遣塚
諸動物供養塔
竹本義太夫墓
岩瀬京傅 京山 加藤千陰墓 |
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回向院 山門から国技館通りを北上 |
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国技館通り 名力士の手形や像
手形には力士名が書かれているが、残念なことに力士像についての説明がない。明らかに大鵬と分かるものもあるが、手形の数人の誰かだろう、と想像するだけである。 |
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JR 総武線 両国駅 西口 |
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JR 総武線 両国駅 西口 |
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JR 総武線 両国駅 西口
駅名の両国駅は相撲文字である。 |