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国技館通り JR 総武線 両国駅 |
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国技館通り JR 総武線 両国駅 |
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国技館通り 夏場所前日の両国国技館
終わったと思ったらすぐ相撲が始まる気がしないでもないが、翌日から夏場所が行われるので、各力士の幟が林立している。 |
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国技館通り 夏場所前日の両国国技館 |
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国技館通り 夏場所前日の両国国技館 |
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国技館通り 旧安田庭園 南門
旧安田庭園は元禄4年(1701)、後の常陸笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園は宗資が築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどり、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り回遊式庭園である。 明治になって旧備前岡山藩池田章政邸となり、明治24年(1891)安田財閥の創始者安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、家屋及び庭園は大正11年(1922)、東京市に寄付された。 |
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国技館通り 旧安田庭園 案内図 |
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旧安田庭園 両国公会堂 |
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旧安田庭園 心字池 |
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旧安田庭園 今が盛りのサツキ |
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旧安田庭園 心字池 |
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旧安田庭園 正門 |
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旧安田庭園前交差点から東京都慰霊堂(横網町公園)へ
東京都慰霊堂がある横網町公園には正門がある清澄通りからいつもは入るが、逆に歩いてみた。 |
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東京都慰霊堂(横網町公園) 案内図
現在地の旧安田庭園前交差点は、右の角の先端である。右上から左下の辺の部分が清澄通りで、中央に正門がある。 |
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東京都慰霊堂(横網町公園) 慰霊堂
旧陸軍被服廠跡で、関東大震災で約4万人がこの地で焼け死んだため、震災慰霊堂が作られた。合わせてその後の復興を記念する復興記念館も建てられた。その後、約10万人が焼け死んだと言われる昭和20年3月10日の東京大空襲の身元不明者も合わせ、約17万人の遺骨が安置されている。名称も、昭和26年に東京都慰霊堂となった。 私が子供の頃、祖母から生まれて間もない母を背負い、幼子3人の手を引いて下町を逃げ惑ったと大震災の話をよく聞かされた。 |
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東京都慰霊堂(横網町公園) |
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東京都慰霊堂(横網町公園) 東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方の非戦闘員である多くの都民が犠牲となりました。
こうした東京空襲の史実を風化させろことなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲のに築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました。
この碑の建設に当たっては、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の呼びかけにより、多くの方々から寄附が寄せられました。
斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京大空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京大空襲犠牲者名簿」が納められています。 |
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東京都慰霊堂(横網町公園) 東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑 |
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東京都慰霊堂(横網町公園) 慰霊堂 |
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東京都慰霊堂(横網町公園) 正門で左折、清澄通りへ |
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清澄通りを北上 |
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清澄通り 石原一丁目交差点で右折、蔵前橋通りへ |