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東京メトロ 銀座線 浅草駅
浅草駅〜吾妻橋〜墨田区役所〜隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)〜牛嶋神社〜言問橋〜馬道交差点〜浅草寺〜仲見世〜浅草駅
【撮影記録】
平成26年 4月 1日 晴れ
11:55〜12:45 3,600歩(概算 2.5km)
スペイン旅行から帰ると一気に暖かくなって桜も満開になっていた。チャンスを逃すと桜を見損ねるので手軽なコースで歩くことにした。
いつも使うgoogle mapが機能変更してサイトに載せることができなくなったのが残念である。 |
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浅草通り 吾妻橋交差点で右折、吾妻橋へ |
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浅草通り 桜見物で賑わう吾妻橋西詰
平日なのでまだそれほど混んではいないが、休日だと左の水上バスの乗船待ちの長い列が吾妻橋の中ほどまで続く。 |
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浅草通り 吾妻橋西詰から見たリバーピア吾妻橋 |
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浅草通り 吾妻橋西詰 水上バスの乗船場 |
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浅草通り 吾妻橋から見たリバーピア吾妻橋
左から台東区役所、アサヒビールタワー、スーパードライホールが見える。この地区一帯をリバーピア吾妻橋といい、秋田藩佐竹氏の屋敷だった浩養園跡で、旧アサヒビール吾妻橋工場跡地である。 |
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浅草通り 吾妻橋東詰交差点で左折、隅田公園(東岸)へ |
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浅草通り 吾妻橋東詰交差点 鬼平情景
吾妻橋(大川橋)
江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三(一七七四)年、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、架橋されました。民営のため武士を除く利用者から渡賃二文を徴収して維持費に充てました。長さ八十四間(約一五〇メートル)、幅三間半(約六・五メートル)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神社への参道にあたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明治九(一八七六)年になってからです。
鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡っていく名場面に出てきます。 |
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浅草通り 吾妻橋東詰交差点 リバーピア吾妻橋 案内図 |
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隅田公園(東岸)を隅田川沿いに北上
墨田区役所とアサヒビールタワーとの間に東京スカイツリーが見える。 |
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台東区役所 うるおい広場 |
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台東区役所 うるおい広場 勝海舟(安芳)像
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(一八二三年)一月三〇日、江戸本所亀沢町(両国四丁目)で、父小吉の実家男谷邸に生まれ、明治三二年(一八九九年)一月一九日、赤坂の氷川邸で逝去されました。 |
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墨田区役所前交差点で左折、墨堤通りへ |
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墨堤通り 北十間川に架かる枕橋から見た東京スカイツリー
東京スカイツリー建設中は有名な撮影スポットだったが、今は立ち止まる人は稀である。
橋の横には枕橋由来の碑がある。
寛文二年(一六六二年)関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。その北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。 その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治八年残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。 現在の枕橋は昭和三年に架け替えられたものである。昭和六十三年、本橋は東京都著名橋に指定された。 |
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墨堤通り 枕橋先の東武スカイツリーライン高架先に隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) |