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言問通り 工事中の首都高6号向島線の高架下を進む
高架下を抜けると言問橋である。 |
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言問通り 言問橋東詰 墨堤通り沿いの満開のサクラ並木
隅田川の東岸の堤は西岸に比べて狭いが、町内会の屋台が並ぶなど賑やかである。 |
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言問通り 言問橋東詰 墨堤通り沿いの満開のサクラ並木
上流側も満開のサクラ並木である。 |
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言問通り 言問橋から見た隅田公園(東岸)の満開のサクラ並木 |
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言問通り 言問橋から見た隅田公園(西岸)の満開のサクラ並木 |
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言問通り 言問橋から見た隅田公園(西岸)の満開のサクラ並木 |
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言問通り 言問橋西交差点で江戸通りを渡る |
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言問通り 馬道交差点で左折、馬道通りへ |
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言問通り 馬道交差点で左折、馬道通りへ
「馬道」という町名は相当古くからあり、「御府内備考」によるとすでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣りあたりが北馬道町である。享保十五年(一七三○)には二天門の右手に南馬道新町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺子院街として発展したが、明治十年(一八七七)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。そして昭和九年(一九三四)さらに浅草馬道町は隣接する幾つかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。 町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。 |
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馬道通り 二天門前交差点で右折
交差点の左には東京スカイツリーが真正面に見える。建設時や開業時には、浅草寺参拝後にこの交差点から直進して隅田公園に向かうイベントがよく開催されてていた。 |
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浅草寺 二天門
この二天門は、慶安二年(一六四九)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺の東照宮は元和四年(一六一八)に建立されたが、寛永八年(一六三一)と同一九年の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼火し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。 明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。 現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(十七紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和三十二年に寛永寺の厳有院殿(四代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。 二天門は昭和ニ十五年、国指定重要文化財に指定された。 |
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浅草寺 二天門から見た風景
右から本堂、五重塔、宝蔵門である。 |
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浅草神社 鳥居
二天門を通り抜けてすぐ右に浅草神社の鳥居がある。
社殿脇には多くの石碑が建てられている。手前右の黒い石碑は河竹黙阿弥顕彰碑、左は花塚慰霊碑である。この他にも花柳壽輔碑、久保田万太郎句碑などがある。
三社祭は浅草寺に隣接する浅草神社の祭である。三社とは、約1,400年前に観世音菩薩像を網にかけた漁師兄弟と、土地の有力者3名を祭ったことによる。 |
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浅草寺 本堂 |
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浅草寺 宝蔵門 |
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浅草寺 仲見世通り 伝法院のサクラ並木 |
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浅草寺 参拝客で混雑する仲見世通り
花見を兼ねた参拝客で賑わっており、中国人ツアーのガイドが芋ようかんの舟和で賞味期限を英語で問い合わせ、店員が流暢な返事をしていた。さすがは国際的な観光名所である。 |
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浅草寺 新仲通り
東京メトロの銀座駅に向かうため、途中で左折して新仲見世通りに入る。 |
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新仲通り 新仲通り入口交差点 松屋浅草店
馬道通りを渡り、松屋浅草店の地下に銀座線浅草駅がある。 |