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戸山公園 箱根山 曲がり角から公園に入る
住宅街を東進し、こんもりとした木々が見えるとそこが箱根山である。道の曲がり角に箱根山地区案内図があり、入口となる。 |
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戸山公園 箱根山 入口 箱根山地区案内図 |
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戸山公園 箱根山 入口 箱根山地区案内図 |
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戸山公園 箱根山 入口
右は階段、左は普通の道であるが、陸軍戸山学校址碑を見たいので確実な左を選ぶ。 |
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戸山公園 箱根山 箱根山地区案内図
陸軍戸山学校軍楽隊の野外音楽堂(野外演奏場)跡手前の案内図である。 |
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戸山公園 箱根山 陸軍戸山学校軍楽隊・野外音楽堂(野外演奏場)跡
赤茶けた鉄骨のみの遺構である。案内図との比較で遺構と分かるが70年以上前のものが残存していることが不思議である。 |
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戸山公園 箱根山 陸軍戸山学校址碑 |
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戸山公園 箱根山 陸軍戸山学校址碑
この地は和田戸という武士の館の跡で、源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ、後代和田戸山と呼ばれた。寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり、殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された。明治六年その地に兵学寮戸山出張所が設けられ、翌七年陸軍戸山学校と改称されて以来約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ、国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である。この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたって、この記念碑を建てて東京都に贈る。
昭和四十二年十一月 元陸軍戸山学校縁故有志一同
摩滅がひどく、読解に苦労した。尚、読みやすくするため、句読点を付加している。 |
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戸山公園 箱根山 登り口 |
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戸山公園 箱根山 上り口 箱根山地区の歴史
この地区は、その昔 源頼朝の武将 和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。
寛文八年(一六六八)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約十三万六千余坪(灼四十四万八千八百余u)に及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。 この「戸山荘」は、寛文九年(一六六九)に工事を始め、天和(一六八一〜一六八三)・貞享(一六八四〜一六八七)の時代を経て元禄年間(一六八八〜一七〇三)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した25の景勝地が造られていた。
なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
その後、一時荒廃したが、寛政年間(一七八九〜一八〇〇)の初め第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。
安政年間(一八五四〜一八五九)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(一八六八)を迎えた。
明治七年(一八七四)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地をなりその一部が昭和二十九年から今日の公園となった。
陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。 |
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戸山公園 箱根山 上り口 寛政年間 戸山尾州邸園池全圖 |
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戸山公園 箱根山 上り口
結構急な階段である。 |
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戸山公園 箱根山 頂上からの眺め |
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戸山公園 箱根山 頂上からの眺め |
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戸山公園 箱根山 頂上からの眺め |
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戸山公園 箱根山 頂上 熱中症計はほぼ安全
現在時刻は11:15で、温度23.0℃、湿度42%、熱中症計はほぼ安全である。
天気は晴れて蒸し暑くはなかったが、家を出る時は曇りでやや寒かったので着ていったブルゾンはここで脱ぎ、シャツの袖はまくり上げて歩くことにした。 |
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戸山公園 箱根山 頂上からの眺め
急な階段を降った先に戸山ハイツに出る出入口が見える。 |
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戸山公園 箱根山地区から出て左折、戸山ハイツ沿いに歩く |