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ヴェルニー公園 バラ園 洋風あずまや
遠くに洋風あずまやが見える。 |
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ヴェルニー公園 バラ園、うみかぜの路
うみかぜの路は横須賀本港沿いのウッドデッキの遊歩道で、いたる所にチェアが置かれて海を見ながら休憩できる。 |
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ヴェルニー公園 うみかぜの路から見える海上自衛隊 おやしお型4隻の潜水艦
おやしお型はそうりゅう以前の潜水艦で、機密保持から艦番号が記されていないので艦名などは分からない。 |
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ヴェルニー公園 うみかぜの路から見える汐入ターミナル
イオン横須賀店の手前にYOKOSUKA軍港めぐりの観光船の乗船場である汐入ターミナルがある。 |
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ヴェルニー公園 汐入ターミナル
現在時刻は10時53分で、5分前から搭乗開始する11時出港の観光船の観光客の長い列が見える。
写真には撮らなかったが、遊歩道を歩いて15分前からすでに長蛇の列が出来ているのが見えていた。事前にYOKOSUKA軍港めぐりのホームページを見ていたが、人気のコースなので乗船予約を勧めており、予約残席を比較してより空いていた12時出港を予約していて良かったと思った。 |
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ヴェルニー公園 汐入ターミナル
左側に汐入ターミナルがあり、右の白い建物の向かいイオン横須賀店の1階に乗船券売り場がある。 |
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YOKOSUKA軍港めぐり 乗船券売り場
白い建物の1階は横須賀の土産物店、2階はケーキなどを販売するシャトレーゼショッパーズである。 |
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YOKOSUKA軍港めぐり 乗船券売り場
予約者の氏名を言って料金1,400円を支払って12時の乗船券を受け取る。11時を少し過ぎたところだったので11時の乗船券にするか確認されたが、長蛇の乗船者の列を見ていたので予定通りとした。後から来たグループは11時を選び、乗船場に急ぐよう指示されていた。
係員に何時に乗船場に行けばよいのか聞いた所、乗船は出発5分前であるが、観光に便利な席に座ろうとする人は30分前から並ぶとのことであった。席は好みにもよるが2階の右を選ぶ人が多い、とのことで、45分の乗船時間を揺れる船で立っているのもきついと判断した。 |
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YOKOSUKA軍港めぐり 乗船券売り場
買う予定の横須賀のお土産の定番である海軍カレーはなく、中身がどう違うのかは分からないが、「ひゅうが」とか「きりしま」と言った護衛艦ごとのカレー缶が売られていた。 |
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YOKOSUKA軍港めぐり 乗船券売り場
乗船券と航路案内図が描かれたパンフレットが渡される。
尚、軍港めぐりの運営会社は海上自衛隊、米海軍と特別な関係はなく、何時、どの船が横須賀港に停泊しているかは軍事機密なので問い合わせられても答えられない、とホームページなどで明記されている。乗船する方からは、乗船料金も高く、ヘリ空母の「いずも」や、第7艦隊の空母が停泊しているときに見物したいので停泊情報は最も知りたい情報ではあるが。 |
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ヴェルニー公園 いこいの広場に向かう
当初計画では出港10分前に乗船場に行けば良いと考えていたので、京急汐入駅界隈の名所であるどぶ板通りなどを散策する予定であった。しかし、乗船30分前までに乗船場に並ぶとなるとこの計画は難しく、いこいの広場からさくらの広場ー2、うみかぜの路を散策することにした。 |
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ヴェルニー公園 いこいの広場に向かう |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 公園案内図 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2
道なりに進むと横須賀市の上下水道局の汐入ポンプ場の建物の裏に旧帝国海軍艦艇記念碑群がある。 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 旧帝国海軍艦艇記念碑群 正岡子規の文学碑
横須賀や
只帆檣の
冬木立 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 旧帝国海軍艦艇記念碑群 正岡子規の文学碑
明治二十一年(一八八八)八月、正岡子規は夏期休暇を利用して、友人とともに汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉に遊んだ。
碑の句は、横須賀港内に連なる帆檣(ほばしら)の印象を詠んだもので、句集「寒山落木」に収録されている。
(以下子規略歴) |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 旧帝国海軍艦艇記念碑群 軍艦沖島の碑
原始
海は生命の故郷であった
その海に果て
その海深く眠る
戦友たちの御魂やすかれ
いのちながらえしもの
あい集い
再び
いくさおらすなと
ねがうものなり
海防艦沖島は、日本海海戦で降伏したロシア海防戦艦である。 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 旧帝国海軍艦艇記念碑群 軍艦長門碑
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をこゝに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 旧帝国海軍艦艇記念碑群 国威顕彰
正面からはよく分からないが、横からみると艦橋となっている。理由は分からないが、銘板が剥がされた跡が残る。 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 旧帝国海軍艦艇記念碑群 軍艦山城之碑
軍艦山城の戦歴
軍艦山城は横須賀鎮守府管下最初の超弩級軍艦として平時の連合艦隊において優れた成績を挙げ太平洋戦争勃発するや各地に転戦し、戦局の変化により悲惨な運命となった昭和十九年十月捷第一号作戦において西村艦隊の旗艦として比島スリガオ海峡に突入し数倍に及ぶ米艦隊と激戦、集中砲火の的となり又魚雷艇および駆逐艦の魚雷攻撃を受け、大破し沈没寸前まで前部砲塔からは間断のない砲撃が続けられたのでありましたが、悲愴にも力つきた。
山城は乗員千六百余名と共にスリガオ海峡の海底深く沈んでいった。時に昭和十九年十月二十五日午前四時十九分。
ここに亡くなられた方々のご冥福をお祈り致し追悼慰霊を挙行し世界平和の願いをこめ、再び戦争の惨禍の起こることにないようにすることを決意し此の碑を建立する。 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 旧帝国海軍艦艇記念碑群 海軍の碑 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 旧帝国海軍艦艇記念碑群 海軍の碑
浦賀に黒船が現われ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。
その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、我が国の近代化に着手した。
特に海軍の整備が重要視され、日清及び日露戦役を経てわが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。
こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最枢要基地として、かつての一集落からわが国屈指の軍港都市となり、発展を遂げることになった。
しかしながら、その海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。
海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、また我が国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。
平成七年十一月十七日 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 旧帝国海軍艦艇記念碑群 海軍の碑 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 うみかぜの路 |
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ヴェルニー公園 さくらの広場ー2 うみかぜの路 熱中症計は危険
現在時刻は11:20で、温度35.5℃、湿度50%、熱中症計は危険である。
今回の散策で最も危惧されたのは気温と湿度、特に海辺なので猛烈な蒸し暑さであった。気温も湿度も危険なほど高いが、何故か蒸し暑さはなく、心地良さを感じるほどの海風であった。 |
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ヴェルニー公園 バラ園 洋風あずまや
11時半近くになったので乗船場に向かうことにした。 |