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田端駅前通り(都道458号) 谷田橋交差点で左折 |
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田端駅前通り(都道458号) 谷田橋交差点で左折 |
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吉井接骨院で左折、北上
信号がある交差点だが、交差点名の標識がない。 |
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千歳湯で右折、東進
目標として分かり難いが、左に少し奥まっているが入口の特徴ある屋根の千歳湯がある。この千歳湯で右折する。 |
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千歳湯で右折、東進
住宅街をひたすら東進する。 |
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西日暮里四丁目交差点で道灌山通りを渡る |
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西日暮里四丁目交差点で道灌山通りを渡る
交差点左には西日暮里駅の高架のホームが見える。 |
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電柱の青雲寺参道の標識に従って左折 |
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青雲寺(恵比寿) 参道 |
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青雲寺(恵比寿) 本堂 参拝者が列をなす |
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青雲寺(恵比寿) 本堂 左横にある滝沢馬琴筆塚の碑 |
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青雲寺(恵比寿) 本堂 左横にある滝沢馬琴筆塚の碑 |
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青雲寺(恵比寿) 本堂 左横にある滝沢馬琴筆塚の碑
江戸時代の戯作者、滝沢馬琴(一七六七〜一八四八)は精力的な著作活動をし、多量の使い古しの筆を残した。これを供養するため、文化七年(一八一〇)に、青雲寺境内の山(現在の西日暮里公園付近)に築いたのが筆塚である。文化六年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちや業績が記されている。題字の「?聿冢名」は、国学・漢学・考証学者で著名な狩谷?斎筆。由来は儒学者亀田鵬斎が撰文し、自ら筆をとった。日ぐらしの里における文化人の活動をうかがい知ることができる。明治時代に、旧加賀藩主前田家が青雲寺境内を墓所として買い取った際に、移設された。明治三十九年(一九〇六)には、前田家墓地から馬琴愛用の硯などが出土し、財団法人前田吉徳会尊経閣文庫に保管されている。
(注)
文中にある?は、旧字のためパソコンで表示できない文字である。 |
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青雲寺(恵比寿) 本堂 左横にある滝沢馬琴筆塚の碑 |
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青雲寺(恵比寿) 本堂 左横にある滝沢馬琴筆塚の碑 |
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青雲寺(恵比寿) 本堂 左横にある滝沢馬琴筆塚の碑
碑文は摩滅がひどく、解読できない。
戯作者滝沢馬琴(1787〜1848)は精力的な著作活動のうちに多量の禿筆(使い古しの筆)を残した。これを供養するため、文化6年(1809)に築いたのが筆塚である。この碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちと業績が記されている。国学・漢学・考証学者で有名な狩谷?斎が額字の「?聿冢名(ふでをうずめしつかのめい)」を書き、由来は儒学者亀田鵬斎が撰文して筆をとった。(荒川区指定文化財) |
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青雲寺(恵比寿) 門前 滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)
青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(一七五一〜六四)、堀田相模守正亮の中興と伝える。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため、青雲寺は修性院・妙隆寺(修性院と合併)などとともに、花見寺ともいわれていた。
現在、谷中七福神のひとつ「恵美寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(文化六年)をはじめ、硯塚の碑(寛政十年)、日暮里黒船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。 |
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修性院(布袋尊) 塀に描かれた布袋尊 |
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修性院(布袋尊) 本堂 |
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修性院(布袋尊) 門前 日ぐらしの布袋(修性院)
修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年始めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。
江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。
境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山衣情碑がある。 |
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修性院(布袋尊) 本堂 |
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住宅街を南下 |