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諏訪台通り(初音のみち)を南下 朝倉彫塑館
朝倉彫塑館(国名勝・国登録有形文化財)
近代日本を代表する彫塑家、朝倉文夫(一八八三〜一九六四)の邸宅兼アトリエである。
朝倉は明治十六年大分県で生まれ、同四十年、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和十年の竣工である。すべて朝倉が設計し、銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣か追求され、随所に彫塑家朝倉の個性を見ることができる。
中庭は、木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された五つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特貿である自然観をもうかがえる。屋上庭園は、かって、朝倉が昭和二年に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が蔬菜を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園てあった。昭和初期に遡る屋上庭園の事例としても貴重である。
昭和四十二年、故人の遺志によって一般公開され、同六十一年には台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となった。
平成十三年、建物が国登録有形文化財に、本館所蔵の文夫の代表作「墓守」の石膏原型が重要文化財指定を受けた。同十九年には、建物と庭一帯が国名勝の指定を受けた。 |
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諏訪台通り(初音のみち)を南下 朝倉彫塑館 |
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諏訪台通り(初音のみち)を南下 下町まちしるべ 旧谷中初音町二丁目
初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(一八六九)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治四年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治二十四年のことである。
谷中初音町二丁目は、元禄一七年(一七〇四)に町屋の開設が許されてできた天王寺中門前町が改称された町である。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(寿老人) |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(寿老人)
狩野芳崖墓
明治初期の日本画家で、文政十一年(一八二八)長府藩御用絵師狩野狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。 明治維新後、西洋画の流人により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったか、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。 明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十ー歳で没した。
墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治二十年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正六年造立)が建つ。 平成五年、台東区史跡として区民文化財台帳に登載された。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(寿老人)
板碑(台東区有形文化財)
死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備え て供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。
死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。 板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では、秩父地方産の緑泥片岩を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵字の種子(阿弥陀如来の種子〈キリーク〉が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。 長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。 一、建治二年(一二七六)四月 円内にキリーク種子を刻む 二、弘安八年(一二八五)八月 上部にキリーク種子を刻む 三、正安二年(一三〇〇)二月 「比丘尼妙阿」と刻む 四、応永三年(一三九六)正月 上部に阿弥陀三尊の種子を刻む 長安寺の開基は、寛文九年(一六六九)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ四〇〇年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。 平成三年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(寿老人) 本堂 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(寿老人) 狩野芳崖墓 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(寿老人) 本堂 |
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諏訪台通り(初音のみち) 長安寺(寿老人) 門前の道を進むと谷中霊園へ |
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谷中霊園 ぎんなん通り 墓石越しに見える東京スカイツリー |
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谷中霊園 ぎんなん通りを東進 |
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谷中霊園 ぎんなん通り 天王寺駐在所交差点で左折、さくら通りへ |
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谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡 |
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谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所交差点 天王寺五重塔跡
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺(毘沙門天)と改称したには、天保四年(一八三三)のことである。最初の五重塔は、寛永二一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三二年七月六日放火により焼失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石二〇個、地覆石一二戸総数四九戸はすべて花崗岩である。大島盈株による明治三年の実測図が残っており復元も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。 |
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谷中霊園 さくら通り 裸木のサクラ並木を北上 |
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谷中霊園 さくら通り 護国山天王寺(毘沙門天)
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長燿に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺(毘沙門天)ご改称したのは、天保四年(一八三三)のことである。
元々日蓮宗の不受不施派であったため弾圧を受け、廃寺になるところを輪王寺宮のとりなしにより元禄12年に天台宗となった。のちに家斉の側室お美代の方一派により日蓮宗改宗の動きがあり、天保4年に寺号を天王寺とした。 |
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谷中霊園 さくら通り 護国山天王寺(毘沙門天) 銅造釈迦如来坐像
本像については、「武江年表」元禄三年(一六九〇)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。 昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。「江戸名所図会」(天保七年(一八三六)刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。 なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。 本像は、明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。 平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。 |
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谷中霊園 さくら通り 護国山天王寺(毘沙門天) 毘沙門堂 |
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谷中霊園 さくら通り 護国山天王寺(毘沙門天) 上善堂
御朱印所は毘沙門堂の左奥にある上善堂にある。 |
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谷中霊園 さくら通り 護国山天王寺(毘沙門天) 熱中症計は注意
現在時刻は12:45で、熱中症計の温度は24.2℃、湿度は47%である。
歩き始めて2時間45分だが、かなり暖かくなってきたので熱中症計を見て驚いた。冬の温度ではなく初夏とも言える天気である。 |
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谷中霊園 さくら通り 護国山天王寺(毘沙門天) 山門
日蓮聖人はこの地の住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。−伝承による天王寺草創の起源である 一般には、室町時代、応永(一三九四―一四二七)頃の創建という。 『東京府志料』は「天王寺 護国山卜号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺卜号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで“富くじ”興行が開催された。日黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。 元禄十二年(一六九九)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保四年(一八三三)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和三十二年七月六日、惜しくも焼火してしまった。 |
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谷中霊園 さくら通り 護国山天王寺(毘沙門天) 山門 |
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谷中霊園 さくら通りに戻り南下 天王寺駐在所交差点
さくら通りを南下すると、高橋 お伝の慰霊碑や、徳川慶喜墓所、明治維新の公卿 大原重徳の墓などが並ぶ。 |