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谷中天王寺〜谷中霊園〜上野桜木交差点

【関連サイト】   桜の名所を散策2(満開直前で大混雑の谷中霊園、上野公園)H280331
(満開間近の谷中霊園H280331(日暮里駅〜天王寺〜上野桜木交差点))

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日暮里駅 旧駅舎前階段を上る 日暮里駅 旧駅舎前階段を上る 

旧駅舎横に階段があり、上ると谷中霊園に出る。左側の道を進むと谷中天王寺に向かう。

トップページの散策地図ではGoogle Mapの機能制約から階段を上るコースは設定できず、左側の線路沿いの道を歩くコースとなっている。
谷中霊園 日暮里駅 西口からの入口 谷中霊園 日暮里駅 西口からの入口 

旧駅舎横からの階段を上った所に谷中霊園の入口がある。
谷中霊園 七、八分咲のさくら並木を南下 谷中霊園 七、八分咲のさくら並木を南下 

一見満開のように見えるが、よく見ると七、八分咲であり、落花もなく通路には花びらはない。

3年前に今回とほぼ同じコースを歩いたが、その時より1週間ほど早いが開花状況は同じくらいである。
谷中霊園 突き当りで左折、谷中天王寺へ 谷中霊園 突き当りで左折、谷中天王寺へ 
 谷中霊園 谷中天王寺 谷中霊園 谷中天王寺 

谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長燿に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺ご改称したのは、天保四年(一八三三)のことである。

元々日蓮宗の不受不施派であったため弾圧を受け、廃寺になるところを輪王寺宮のとりなしにより元禄12年に天台宗となった。のちに家斉の側室お美代の方一派により日蓮宗改宗の動きがあり、天保4年に寺号を天王寺とした。
谷中霊園 谷中天王寺 ハナモモ 谷中霊園 谷中天王寺 ハナモモ 

境内に入ったら真っ白なきれいな花が咲いていた。初めて見る花だがハナモモというそうで、花を鑑賞するために改良されたが、実は小さく食用に適さないとのことである。
谷中霊園 谷中天王寺 ハナモモ 谷中霊園 谷中天王寺 ハナモモ 
谷中霊園 谷中天王寺 銅造釈迦如来坐像 谷中霊園 谷中天王寺 銅造釈迦如来坐像 

 本像については、「武江年表」元禄三年(一六九〇)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
 昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。「江戸名所図会」(天保七年(一八三六)刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
 なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
 本像は、明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
 平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
谷中霊園 谷中天王寺 銅造釈迦如来坐像 谷中霊園 谷中天王寺 銅造釈迦如来坐像 
谷中霊園 谷中天王寺 六、七分咲きのの枝垂れ桜 谷中霊園 谷中天王寺 六、七分咲きのの枝垂れ桜 

枝垂れ桜の前には沙羅双樹があるが、若葉がいくつか出ている程度である。
谷中霊園 谷中天王寺 六、七分咲きのの枝垂れ桜 谷中霊園 谷中天王寺 四、五分咲きのの枝垂れ桜 
 谷中霊園 谷中天王寺 山門 谷中霊園 谷中天王寺 山門 
 谷中霊園 谷中天王寺 山門 谷中霊園 谷中天王寺 山門 

 日蓮聖人はこの地の住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。−伝承による天王寺草創の起源である 一般には、室町時代、応永(一三九四―一四二七)頃の創建という。
 『東京府志料』は「天王寺 護国山卜号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺卜号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで“富くじ”興行が開催された。日黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
 元禄十二年(一六九九)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保四年(一八三三)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和三十二年七月六日、惜しくも焼火してしまった。
 谷中霊園 谷中天王寺 山門 谷中霊園 谷中天王寺 山門 
谷中霊園 七、八分咲のさくら並木のさくら通りを南下 谷中霊園 七、八分咲のさくら並木のさくら通りを南下 

天王寺を出ると、道は広くなり、さくら並木で有名なさくら通りと称される。
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 

最初の五重塔は、寛永二一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で消失した。 罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅悸造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三二年七月九日放火により消失した。
谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所 

谷中霊園の南北を通る「さくら通り」と、東西を結ぶ「ぎんなん通り」との交差点に交番があり、隣接して天王寺五重塔の遺構がある。
谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所 
谷中霊園 七、八分咲のさくら並木のさくら通りを南下 谷中霊園 七、八分咲きのさくら並木のさくら通りを南下 
谷中霊園 さくら通り 川上音二郎碑 谷中霊園 さくら通り 川上音二郎碑 

川上音二郎碑(1864−1911)

新派俳優。福岡県出身。民権思想を盛り込んで時局を風刺した。「オッペケペー節」が大流行した。墓は九州博多の承天寺にある。
 谷中霊園 さくら通り 徳川慶喜墓 案内 谷中霊園 さくら通り 徳川慶喜墓 案内 

さくら通りから結構距離があり、途中に案内があるものの徳川慶喜の墓はわかりにくい。
谷中霊園入口交差点で左折、直進 谷中霊園入口交差点で左折、直進 

左に直進すると上野桜木交差点で言問通りを渡り、上野公園に向かう。右には急角度で曲がり団子坂通りに進む。
 都道神田白山線 上野桜木交差点で言問通りを渡る 都道神田白山線 上野桜木交差点で言問通りを渡る 

信じられないことだが、都道神田白山線は、民家の間の狭い道を通り抜ける。軽自動車がせいぜいの幅員で、谷中からの一方通行であるが、歩行者にギリギリで結構車が通り抜ける。
 言問通り 上野桜木交差点 休館の台東区立下町風俗資料館 言問通り 上野桜木交差点 休館の台東区立下町風俗資料館 

休館のお知らせ

 新型コロナウイルス感染防止のため、2月28日(金)〜4月13日(月)まで休館いたします。
 期間を延長する場合は、あらためてお知らせいたします。大変申し訳ありませんが、ご理解の程お願いいたします。

台東区立下町風俗賁料館
 言問通り 上野桜木交差点 休館の台東区立下町風俗資料館 言問通り 上野桜木交差点 休館の台東区立下町風俗資料館 



 
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